アルゲンティア戦記最初の糧
前の話で選んだ選択肢まず空腹をしのぐ算段を——最初の集落か、街道を行く旅人を頼る。
街道を、歩く。
陽は、いつのまにか高く昇っていた。丘を下りてからどれほど経ったのか、クオには分からない。ただ、足だけが、前へ前へと動いていた。広い道は、村のどの道より平らで、歩きやすいはずだった。なのに、一歩ごとに、体が重くなっていく。
——腹が、減った。
考えてみれば、昨日の朝から、何も口にしていない。神授の儀の日。無印と裁かれ、村を追われ、井戸の声を聞き、そして村を捨てた。そのあいだ、食べることなど、頭の隅にもなかった。今になって、忘れていた飢えが、ぐう、と腹の底で鳴った。
街道には、人がいた。荷を背負った行商人。馬を引く農夫。子連れの巡礼。荷馬車に揺られる商人。みな、どこかへ向かい、どこかから来た。村では見たこともない、様々な身なりの、様々な顔。クオは、その流れの端を、ぽつんと歩いていた。
誰も、クオを見なかった。
それは、村とは違う無視だった。村では、人々はクオを「無縁仏の子」として、わざと見ないようにしていた。ここでは、ただ、誰もクオを知らないから、見ないだけだ。同じ「見られない」でも、まるで違う。村の無視には棘があった。ここの無視は、ただの、無関心だった。
——その方が、まだ、いい。
けれど、無関心は、腹を満たしてはくれない。
クオは、行き交う人々に、声をかけられなかった。「何か恵んでくれ」と。その一言が、どうしても、出てこない。村で十五年、空気のように扱われてきた身に、見知らぬ大人へ手を差し出す度胸など、育っていなかった。近づけば、追い払われる。きっと、そうだ。村の大人が、いつもそうしたように。
だから、クオは、ただ歩いた。腹を空かせたまま。
陽が傾きはじめた頃、道の脇で、難儀している男がいた。
荷馬車だった。片方の車輪が、道の窪みにはまり込み、ぬかるみに深く沈んでいる。男は一人で、車輪を押したり、馬の手綱を引いたりしていたが、荷車はびくともしない。荷が重いのだろう。ずんぐりとした体つきの、四十がらみの旅商人らしかった。汗だくで、何度も同じ動作を繰り返しては、息を切らしている。
クオは、足を止めた。
手伝えば。その考えが、ふと、浮かんだ。手伝えば——何か、もらえるかもしれない。パンの一切れでも、水の一口でも。物乞いではない。働いて、その対価をもらうのなら。それなら、この、村でただひとつクオに残された、誰にも奪われなかった何か——意地のようなものを、汚さずに済む。
けれど、足は、すぐには動かなかった。
見知らぬ大人だ。声をかけて、邪険にされたら。「無印の分際で」と——いや、ここでは誰も無印を知らない。それでも、怖かった。人に近づくこと自体が、クオには、ひどく難しいことだった。
男が、また、車輪を押した。荷車は、動かない。男の口から、疲れた呻きが漏れた。
クオは、唇を噛んだ。そして、歩み寄った。
何も言わず、車輪の後ろに回り、両手をかけた。男が、驚いて顔を上げる。だが、クオは、目を合わせなかった。ただ、力を込めた。痩せた体の、ありったけの力を。
男も、はっと我に返り、再び車輪に取りついた。馬が、嘶く。ぬかるみが、ずる、と鳴った。二人で、押す。クオの足が、地面にめり込む。腕が、軋む。空っぽの腹に、力が入らない。それでも——
ごとり、と、車輪が、窪みから抜けた。
荷車が、勢いよく前へ転がり、平らな道へ戻る。クオは、たたらを踏んで、地面に膝をついた。荒い息が、止まらない。
「……助かった」
男の声が、降ってきた。クオは、顔を上げた。汗を拭いながら、男が、まじまじとクオを見下ろしていた。日に焼けた、人の好さそうな、けれど抜け目のなさそうな顔。
「いやあ、参ってたところだ。坊主、ありがとうよ」
坊主。そう呼ばれて、クオは、戸惑った。村では、誰もそんな風に呼ばなかった。無縁仏の子。無印。それがクオの名前だった。「坊主」などという、どこにでもいる子供みたいな呼び方を、されたことが、なかった。
「どこの子だ? 見ない顔だが」
問われて、クオは、言葉に詰まった。どこの子。何と答えればいい。あの村の名を出せば、無印だと知られるかもしれない。いや——ここまで来て、この男が、あの小さな村のことを知っているはずもない。それでも、口は重かった。
「……旅の、者だ」
やっと、それだけ言った。嘘ではなかった。今のクオは、確かに、どこにも属さない、旅の者だった。
男は、ふうん、と一つ頷いただけで、それ以上は問わなかった。代わりに、荷台に手を伸ばし、布包みを取り出すと、中から乾いたパンの塊と、革袋を出して、クオに差し出した。
「ほれ。礼だ。腹、減ってるんだろう。顔に書いてある」
クオは、その手を、見つめた。差し出された、パン。誰かが、クオに、食べ物を差し出している。村で十五年、一度もなかったことだった。残飯すら、投げ与えられこそすれ、こうして「手から手へ」渡されたことは。
「……いいのか」
「働いた分だ。遠慮するな」
クオは、震える手で、それを受け取った。パンは、硬く、乾いていた。けれど、受け取った瞬間、なぜか、目の奥が、熱くなった。慌てて、俯く。男に、見られないように。
齧る。硬いパンが、口の中で、ゆっくりとほどけていく。革袋の水で流し込む。ただの、乾いたパンと、生ぬるい水。それだけのものが、こんなにも——うまかった。生まれて初めて食べる味のように、うまかった。
男は、クオの食べる様子を、しばらく眺めていた。それから、荷台を軽く叩いて言った。
「俺は、この先の宿場町まで行く。荷運びを手伝ってくれるなら、町まで乗せてってやるぞ。駄賃も、少しははずむ。どうだ?」
クオは、パンを飲み込み、男を見た。外の世界で、初めて差し出された、行き先。
この話の選択肢
- 申し出を受け、荷運びを手伝って、男とともに宿場町へ向かう。正史
- 礼だけ言って申し出を断り、独りで街道を進む。
- 町のことを、もっと詳しく男に尋ねてから決める。