アルゲンティア戦記宿場町
前の話で選んだ選択肢申し出を受け、荷運びを手伝って、男とともに宿場町へ向かう。
「……手伝う」
クオは、それだけ言った。
声が、自分でも驚くほど、掠れていた。久しぶりに、人に向かって、自分の意志を口にした気がした。村では、誰かに何かを頼まれることも、引き受けることも、ほとんどなかった。命じられるか、追い払われるか、そのどちらかだった。「手伝う」——たった三文字の、対等な約束。それを口にするのが、こんなにも難しいとは、思わなかった。
男は、にっと笑った。「よし、決まりだ。乗れ乗れ」
荷台の端を示され、クオはおずおずと腰を下ろした。男が手綱を鳴らすと、馬が低く嘶いて、荷車がゆっくりと動き出す。木の車輪が、街道の轍を踏んで、ごとごとと揺れた。歩くより、ずっと速い。村を出てからずっと自分の足だけが頼りだったクオにとって、車に運ばれるという感覚は、奇妙に心許なく、そして、楽だった。
しばらく、二人は黙っていた。やがて、男のほうが口を開いた。
「俺はガロだ。この街道を、東の宿場町と、西の村々のあいだで、行ったり来たりしてる。塩だの、鍋だの、布だの——村にゃ無いものを運んで、村の麦やら干し肉やらと換える。けちな稼業さ」
ガロ、とクオは口の中で繰り返した。名乗られた以上、自分も名乗るのが筋だ。けれど、迷った。クオ、という名は、村で無印に貼りついた名でもある。この名を出して、もし——いや。考えすぎだ。ガロが、あの村のことを知っているはずもない。
「……クオ、だ」
「クオか。いい名だ」ガロは、深く詮索しなかった。「歳は、十五ってとこか。家を出て、奉公先でも探してるのか」
「……まあ、そんなところだ」
嘘ではない、とクオは思うことにした。行く当てを探しているのは、本当だ。ガロは「そうかい」とだけ言って、それ以上は訊かなかった。この男は、人との距離の取り方を知っていた。踏み込みすぎず、突き放しもせず。それが、クオには、ありがたかった。
道中、ガロはよく喋った。どの村のパンが旨いとか、去年の冬は雪で街道が三日塞がれたとか、東の町の市がいかに賑わうかとか。クオは、その大半を、相槌だけで聞いていた。けれど、聞いているうちに、村しか知らなかった自分の世界が、少しずつ、広がっていくのを感じた。街道の先には、町がある。町には、市があり、宿があり、何千もの人が暮らしている。クオが村の隅で空気のように生きていたあいだ、世界は、こんなにも豊かに、回り続けていたのだ。
陽が、すっかり傾いた。茜色が藍に変わり、街道の両脇の野が、夜の闇に沈んでいく。クオが、そろそろ野宿の心配をしはじめた、その時だった。
「ほら、見えてきたぞ」
ガロが、顎で前を示した。クオは、顔を上げた。そして——息を、呑んだ。
闇の中に、灯りが、あった。
一つや二つではない。何十、何百という灯りが、丘の斜面にびっしりと貼りつき、夜の底で、金色に滲んでいる。まるで、地に落ちた星々のようだった。その灯りの群れを、低い石の壁がぐるりと囲み、街道はまっすぐに、その町の門へと吸い込まれていく。
「宿場町だ」とガロが言った。「この街道で、いちばん大きい。今夜はここで一泊する」
クオは、声も出せずに、その灯りを見つめていた。村には、夜になれば灯りなど、数えるほどしかなかった。日が落ちれば人は眠り、闇が世界を覆う。それが、クオの知る夜だった。なのに、この町は——夜になってなお、こんなにも、明るい。こんなにも、たくさんの人が、起きて、生きて、灯りを灯している。
世界は、広いだけではなかった。明るかった。
荷車が、町の門をくぐる。その瞬間、音と、匂いと、光が、いちどきにクオへ押し寄せた。
石畳を踏む無数の足音。客を呼ぶ店主の声。どこかで弾かれる弦の音。焼ける肉の匂い、酒の匂い、人いきれ。軒を連ねる店々から漏れる、暖かな灯り。村の祭りの、何十倍もの賑わいが、ごく当たり前の日常として、そこにあった。行き交う人々は、誰一人、クオを気に留めない。あまりに多くの人がいすぎて、一人の薄汚れた少年など、波間の木の葉ほどの存在でしかなかった。
その無関心が、街道のそれよりも、もっと深く、クオを包んだ。
ここでは、本当に、誰も自分を知らない。無印も、無縁仏の子も、この雑踏の中では、何の意味も持たない。クオは、ただの、一人の少年だった。それが——怖くもあり、同時に、めまいがするほど、自由だった。
ガロは、慣れた手つきで荷車を裏通りへ入れ、一軒の宿の前で止めた。古いが、手入れの行き届いた、二階建ての宿だった。軒先に、麦穂を象った看板が下がっている。
「まずは荷下ろしだ。手伝ってくれ」
二人で、荷台の木箱や麻袋を、宿の裏口へと運び込む。重い塩の袋を担ぐと、空きっ腹に応えたが、クオは歯を食いしばって運んだ。これは仕事だ。引き受けた、対等の約束だ。半端にはできない。
すべて運び終えると、ガロは満足げに汗を拭い、懐から小さな革袋を取り出した。中で、硬い音がする。彼はそこから、銅貨を数枚つまみ出すと、クオの手のひらに、ぽとり、と落とした。
「駄賃だ。よく働いてくれた」
クオは、手のひらの銅貨を、見つめた。冷たく、硬い、数枚の銅貨。床下に隠していた施しの銅貨とは、違う。これは——自分が、自分の手で、働いて得た金だった。生まれて初めて。誰かの情けでも、施しでもなく、労働の対価として、正当に受け取った金。たった数枚の銅貨が、手のひらの上で、ひどく重く感じられた。
「……ありがとう」
その言葉も、村ではほとんど使ったことのないものだった。
その時、宿の戸が開いて、恰幅のいい女が顔を出した。
「あら、ガロじゃないか。今夜は遅かったね」
宿の女将らしかった。歳の頃は五十くらい。太い腕を腰に当て、よく通る声で言う。ガロが「車輪をぬかるみに取られてな」と笑い、それから、クオを振り返った。
「こいつは、道中で助けてもらった坊主だ。クオって言う。今夜の宿を、一つ頼めるか。代は俺が——」
「いや」クオは、とっさに遮った。手の中の、銅貨を握りしめて。「……自分で、払う」
女将が、片眉を上げて、クオを見た。それから、ふっと、口元を緩めた。
「ほう。いい目をしてるじゃないか、坊や」
この話の選択肢
- この宿に泊めてもらい、女将に「何か働き口はないか」と頼んでみる。
- ガロに「明日も手伝わせてくれ」と頼み、もう少し旅商人について行く。
- 礼を言って独り、夜の町へ出て、自分の目で町を見て回る。正史