NoveLoreノベロア・物語の冒険者ギルド
アルゲンティア戦記all

アルゲンティア戦記村を背に

前の話で選んだ選択肢これ以上は聞かず、灰の重さを抱えて井戸を離れ、街道へ出る。

その先には、道があった。

村の北をかすめて、なだらかな丘の向こうへ消えていく、一本の細い道。クオが、これまで一度も歩いたことのない方角。村の子は、あの丘の向こうへ行ってはいけないと、親に言いつけられて育つ。丘の向こうは「外」だ。村の理(ことわり)が届かない、見知らぬ世界。

クオは、井戸に背を向けた。

今度は、足が動いた。一歩、二歩。さっきまであれほど重かった体が、嘘のように前へ出る。背後で、声が何か言ったような気もしたが、振り返らなかった。——また来い、井戸は逃げん。その言葉は、確かに聞いた。聞いたうえで、今は応えない。胸の上の四つの石は、まだ重い。けれど、この井戸の縁に座り込んでいるかぎり、その重さに、ただ潰されるだけだ。声は言った。歩いて、慣れろ、と。慣れるためには、まず、歩かねばならない。

クオは、村の中を通らなかった。

広場を抜ければ近いことは分かっていた。だが、あの広場には、もう二度と立ちたくなかった。無印と裁かれた祭壇。割れた人垣。木陰の白い衣。あれを、もう一度くぐる必要はない。代わりに、クオは麦畑の外縁を回った。穂の波をかき分け、畦(あぜ)を伝い、人目につかない裏手から、丘へ続く道へ出る。

道の登り口で、クオは一度だけ、足を止めた。そして、振り返った。

朝靄(あさぎり)の中に、村が沈んでいた。色褪せた幟。煙を上げ始めた家々の竈(かまど)。遠く、広場のあたりで、人の動く気配。きっと今日も、昨日と同じ一日が始まるのだろう。誰かが畑を耕し、誰かがパンを焼き、誰かが噂話に花を咲かせる。その輪の中に、クオの居場所は、最初から無かった。今日いなくなったところで、誰も気づきはしない。明日には、無印の子がいたことなど、忘れられているだろう。

——それで、いい。

不思議と、恨みは湧かなかった。湧くほどの繋がりが、この村とのあいだに、無かったのだ。十五年、空気のように扱われてきた。空気には、別れを惜しむ相手もいない。ただ、ひとつだけ。

——セレネ。

その名が、ふいに胸をかすめた。木陰の白い衣。声にならない「ごめんなさい」。あれだけが、唯一、この村に残してきた、断ち切れない何かだった。けれど、それも。あの「ごめんなさい」が何だったのか、確かめる機会は、もう無い。彼女は王級の聖女候補で、自分は人ですらない無印だ。住む世界が、違う。今朝、父の灰の話を聞いたあとでは、その隔たりは、いっそう深く、暗く思えた。

クオは、村に背を向けた。今度こそ、振り返らなかった。

丘を登る。道は細く、踏み固められた土がところどころ剥げて、石が顔を出している。登るにつれ、村の音が、背後で薄れていく。竈の煙の匂いも、人の気配も。代わりに、風が変わった。村の中では麦と土の匂いしかしなかった風に、知らない匂いが混じりはじめる。遠い森の、湿った青さ。乾いた石の。——世界の、匂い。

丘の頂(いただき)で、視界が、開けた。

クオは、息を呑んだ。

眼下に、見たこともない広さが、広がっていた。なだらかな丘がいくつも連なり、そのあいだを縫って、一本の道——さっきまでの細道とは比べものにならない、広い道が、地平の彼方まで伸びている。土が踏み固められ、幅は荷馬車がすれ違えるほど。轍(わだち)が、幾重にも刻まれている。人が、物が、絶え間なく行き交ってきた道。街道だ。

そして、そのはるか先、霞の向こうに、ぼんやりと、何かの影が見えた。塔のような、壁のような。村の何十倍もある、巨(おお)きな人の営みの影。町か、あるいは、もっと大きな何か。

世界は、こんなにも、広かった。

十五年、クオが生きてきたのは、麦畑に囲まれた、あの小さな村だけだった。村が世界の全部だった。神授の格が、人の価値の全部だった。けれど、丘の上から見下ろすこの広さの前では、あの村も、あの祭壇も、ひどく小さく思えた。村の物差しが、世界の物差しとはかぎらない。——そんな当たり前のことに、クオは、生まれて初めて、肌で気づいた。

もちろん、不安は、あった。手には何の格もない。袂(たもと)には、銅貨の一枚もない。食う当ても、寝る場所も、頼る相手も、何ひとつ無い。十五の無印が、たった独りで、見知らぬ世界へ踏み出す。普通なら、無謀だ。野垂れ死にの未来しか、見えないはずだった。

なのに、足は、止まらなかった。

なぜなら——この広い世界には、まだ、誰も、クオを知らない。

「無印」も「無縁仏の子」も、この丘の向こうには、まだ貼られていない。あの村の烙印は、あの村の中でしか通用しない。街道の先の町では、クオは、ただの名もない旅の少年だ。白紙。何も書かれていない、空白。——けれど、その空白は、もう、ただの欠落ではない気がした。声は言った。お前の手が白紙なのには、別の理由がある、と。父も、無印だった、と。

クオは、右の手のひらを、そっと開いた。何も書かれていない、白い手。朝の光が、その空白を、淡く照らす。この手で、これから何を書いていくのか。それは、まだ分からない。けれど、この空白を抱えて歩いた男が、かつて確かに、いた。会ったことのない父も、ひょっとしたら、この道のどこかを、歩いたのかもしれない。

そう思うと、空白の手が、ほんの少しだけ、軽くなった。

クオは、手を握りしめ、丘を下りはじめた。胸の上の、四つの石を抱えたまま。けれど、その重さは、もう、潰されるだけの重さではなかった。背負って、歩くための、重さだった。

街道の土を、初めて、踏む。

世界が、クオの足の下で、始まっていた。

この話の選択肢

  1. 人や荷の行き交う本道を辿り、霞の向こうの町を目指す。
  2. 人目を避け、街道を外れた脇道へ逸れて、独りで進む。
  3. まず空腹をしのぐ算段を——最初の集落か、街道を行く旅人を頼る。正史