NoveLoreノベロア・物語の冒険者ギルド
アルゲンティア戦記all

アルゲンティア戦記夜明けの問い

前の話で選んだ選択肢夜明けに井戸へ引き返し、あの声に「父」のことを問い質す。

浅い眠りから引き上げられたとき、社の隙間から差し込む光は、まだ夜の名残を引きずった灰色だった。

体を起こすと、節々がきしんだ。床代わりの板の冷たさが、背に貼りついている。クオはしばらく、その薄明かりの中で膝を抱えたまま動かなかった。夢は、見なかった。あるいは見たのかもしれないが、覚えていない。ただ、眠りに落ちる前に胸へ置いたものだけが、目覚めてもまだ、同じ場所にあった。

父。

その一文字は、夜のあいだに溶けて消えてはくれなかった。むしろ、ひと晩寝かせたぶんだけ、輪郭をくっきりとさせて、胸の真ん中に据わっていた。

昨夜、あれほど「信じない」と並べ立てたはずだった。餌だ、針だ、はぐらかしだ、と。ひとつずつ理由をつけて、闇の底の声を遠ざけようとした。それは間違っていなかったと、今も思う。思うのに——足は、別のことを決めていた。

社の戸を押し開けて外に出たとき、クオの向かった先は、村でも、街道でもなかった。村はずれの、あの忘れられた古井戸だった。

——意味は、いくらでも疑える。

冷えた朝の道を歩きながら、クオは胸の内で、もう一度それを確かめた。声が語った「理由」も「順序」も、都合がよすぎる作り話かもしれない。それでいい。だが、声が握っていた事実までは、どうしても嘘にできなかった。名を呼ばれた。生まれた夜を知られた。そして、父、と言いかけて、口を噤まれた。あの一文字を確かめずに村を出れば、それは一生、胸の奥でくすぶり続ける。灰になりきらない熾火のように。ならば、掻き出すしかない。信じるためではない。片をつけるためだ。

朝の光の下で見る井戸は、夜とは別のもののようだった。

崩れかけた石組みに、びっしりと苔が貼りついている。縁の木枠は黒く朽ち、片側は地に倒れ伏していた。昨夜は底知れぬ闇の口に見えたそれが、今はただ、長く打ち捨てられた、古いだけの穴に見える。覗き込んでも、底は見えない。光の届かぬところで、暗がりだけが、静かにわだかまっていた。

クオは井戸の縁に手をかけ、その闇へ向かって、低く声を落とした。

「——いるんだろう」

返事は、なかった。風が井戸の口を撫でて、ひゅう、と細く鳴っただけだった。

「父のことを話せ」クオは、もう一度言った。今度は、はっきりと。「昨夜、お前は言いかけた。途中でやめた。最後まで言え」

しばらく、何も起こらなかった。クオは、自分が空の穴に向かって独りで喋っているだけの、惨めな男になったような気がした。引き返そうか、と踵が半ば浮きかけた、その時——底のほうで、何かが、ゆっくりと身じろいだ。

「……来たか」

しわがれた、あの声だった。「ずいぶん、急くではないか」

「急いてなどいない」クオは縁を握る手に、力を込めた。「一晩じゅう、考えた。考えて、まだ消えなかった。だから来た」

「考えて、それでここへ戻ったか」声は、笑ったようだった。乾いた、葉ずれのような音で。「言うたはずだ。順序がある、と。一度に多くをのめば——」

「咽せる、だろう」クオは遮った。「もう聞いた。順序などいらない。父のことだけでいい。それだけ、答えろ」

声は、黙った。井戸の底の暗がりが、こちらの出方をうかがっているように、クオには思えた。風が止み、あたりが、奇妙なほど静かになった。自分の心の臓の音が、やけに大きく聞こえた。

やがて。

「……あった」

声は、ぽつりと言った。

「何が」

「お前にも、父があった。——誰の子でもない、無縁仏の子と、お前は言われて育ったろう。納屋に置かれていた、捨て子だと。だが、それは違う。お前は、ある男の子だ。確かに、この世に父を持って生まれた」

その言葉が、胸の真ん中の——十五年、ずっと空白だった場所に、ことりと落ちた。あってはならないものが、また一つ、置かれた。クオは、自分の喉が浅く上下するのを感じた。落ち着け、と己に命じる。これも、餌かもしれない。甘い顔をした、針かもしれない。

「誰だ」声が掠れるのを、抑えきれなかった。「その男は、誰だ。今、どこにいる」

「どこにもおらん」声は、短く言った。「とうに、死んだ」

——死んだ。

会うことは、できない。問い質すことも、顔を見ることもできない。それは、まだ抱きもしなかった望みを、抱く前に断ち切られる感触だった。妙な話だった。昨日まで、いるとも思っていなかった相手だ。それなのに、「死んだ」と言われた今、胸の底が、確かに一度、軋んだ。

クオは、奥歯を噛んだ。それから、絞り出すように言った。

「ならば、せめて。——何者だったのか、教えろ。どこの誰で、なぜ、俺がこの村の納屋に独りで残された」

声は、ひとつ、長い息を吐いたようだった。出し惜しみとは、少し違う間だった。語るべきか、まだ早いか——そう測っているような、重い沈黙。そして、闇の底から、ゆっくりと、それは届いた。

「お前の父も——無印だった」

クオは、息を呑んだ。

無印。何も書かれない、空白の格。神に見放され、人ですらないと裁かれる、最下層の烙印。それを、自分はたった独りで負わされたのだと思っていた。世界じゅうで自分ひとりに貼られた、理由のない呪いだと。

——それが、父から、続いていた。

孤独だと思っていた空白に、初めて、細い血の筋が通った。自分は、突然どこからともなく生じた穢れではなかった。前があった。同じ空白を負った男が、確かに自分の前に、いた。その事実は、不思議なほど、胸を温めた。

だが、温もりは、すぐに別のものに塗り変わった。

——父も無印で。その父が、死んでいるなら。

無印とは、いったい、何なのだ。ただの欠陥なら、なぜ声は「欠陥ではない」と言った。血で続くものなら、それは格なのか、病なのか、それとも——。問いは、答えを一つ得たそばから、二つ、三つと、新しい闇を口に開けていく。掻き出したはずの熾火は、消えるどころか、いっそう赤く、胸の底で息を吹き返していた。

「今日は、ここまでだ」

声は、退く気配を見せた。最前より、いっそう遠く、低くなって。

「いっぺんにのめば、咽せる。——お前は、もう一つ、抱えた。それを抱えて、歩いてみよ。重さに慣れたら、また来い。井戸は、逃げん」

それきり、底の暗がりは、ただの暗がりに戻った。風が、また井戸の口を鳴らした。

クオは、縁に手をかけたまま、しばらく動けなかった。空はいつのまにか灰色を脱ぎ、白んだ光が、苔むした石を淡く照らしている。父があった。父は、死んだ。父も、無印だった。たった三つの、確かな石。その重さを、クオは胸の上で、そっと量り直した。

そして、ゆっくりと、井戸に背を向けた。

この話の選択肢

  1. 「どうやって死んだ」と、父の最期を問い質す。正史
  2. 「なぜお前がそれを知っている」と、声の正体に切り込む。
  3. 知らされた三つの事実を抱えたまま、井戸を離れ、街道へ出る。