アルゲンティア戦記餌と釣り針
前の話で選んだ選択肢眠る前に、もう一度だけ井戸の声のことを考える
額を膝に乗せたまま、どれほどそうしていたのか、自分でも分からなかった。眠りは、いつまでも訪れなかった。
体は綿のように重いのに、頭の芯だけが、冷たい水で洗われたように冴えている。社の外で風がひと鳴りするたび、まどろみの縁まで連れていかれ、そのたびにまた、岸へ引き戻された。何度それを繰り返しただろう。やがてクオは諦めて、暗がりの中で、薄く目を開けた。
——もう一度だけ。
考えるのは明日でいい、と決めたはずだった。一度に多くをのめば咽せる、と。それでも瞼を閉じるたびに戻ってくるのは、あの闇の底の二つの光と、しわがれた声ばかりだった。ならば、いっそ。半端に蓋をしているから、眠れないのだ。クオは膝を抱え直し、あの声が遺していった言葉を、ひとつずつ、闇の中で並べ直しはじめた。
別の理由がある。お前が無印と裁かれたのは、欠陥だからではない。
——これは、信じない。
胸の内で、即座にそう裁いた。あまりに都合がよすぎる。今日一日で、名も、居場所も、格も、何もかもを失った少年に、ちょうどあつらえたように囁かれる救い。出来すぎている。村の暮らしが教えたことが、ひとつだけあるとすれば、それはこうだ——ただで差し出されるものに、ろくなものはない。差し出されたぶんだけ、あとで毟り取られる。あの言葉が救いの形をしているなら、なおさら疑ってかかるべきだった。餌は、いつも甘い顔をしている。甘いからこそ、針が隠せる。
順序がある。
——これも、はぐらかしだ。
問いに正面から答えず、小出しにして、こちらを次の機会へ繋ぎ止める。あの声は、明らかに何かを握ったまま、出し惜しみしていた。「また来い。井戸は逃げん」。あれは誘いだ。一度で語らぬのは、語れぬからではない。語らぬほうが、都合がいいからだ。——そこまで考えて、クオは闇の中で、小さく自嘲した。疑う、疑う、と並べ立てる端から、自分がもう、あの声のことばかり考えているのだから。
けれど。
並べ直した言葉の中に、ひとつだけ、どうしても脇へ押しやれないものが、残った。
あの声は、クオの名を、知っていた。
闇の底から、はっきりと「クオ」と呼んだ。聞き間違いではない。——考えてみれば、それは奇妙なことだった。この村で、クオを名で呼ぶ者など、もうほとんどいない。無縁仏の子。穢れ。無印。そう吐き捨てられることはあっても、名を呼ばれることは、絶えて久しかった。村の者ですら忘れかけている名を、村はずれの、忘れ去られた井戸の底の声が、なぜ知っている。
それだけではなかった。あの声は、クオの「生まれた夜」のことまで、知っているような口ぶりだった。言いさして、結局は語らなかったが——口にしかけた、ただそれだけで、足りた。
生まれた夜。
クオには、自分が生まれた夜のことなど、何ひとつ分からない。母がどこの誰かも、なぜ自分が村はずれの納屋に置かれていたのかも。物心ついたときには、もう独りだった。親、という言葉は、いつも他の子供のものだった。自分のものではなかった。誰の子でもない、無縁仏の子。それが、生まれてこのかた、クオに貼られてきた名だった。
その自分の「生まれた夜」を、闇の底の声は、知っているという。
そして——父、と。あの声は、確かにそう言いかけた。
その一文字を、クオは暗闇の中で、そっと胸の上に転がしてみた。
父。
一度も、口にしたことのない言葉だった。誰に向けても、使ったことがない。それは、温もりでも、懐かしさでもなかった。むしろ、見知らぬ刃物を不意に握らされたときのような、収まりの悪い、危うい感触だった。あってはならないものが、胸の真ん中に、ことりと置かれている。十五年、ずっと空白だった場所に。
信じてはいけない、と、クオはもう一度、自分に言い聞かせた。声を信じれば、心を握られる。胸の奥のあの小さな熾火を、火にしてはいけない。望めば、望んだぶんだけ、裏切られたときに深く焼かれる。それは、今日いやというほど学んだことだった。木陰の、白い衣。声にならない「ごめんなさい」。期待は、いつもああして、最後には背を向ける。
それでも。
——あの声は、嘘の意味を語ったのかもしれない。けれど、嘘の名は、呼べない。知らぬ夜のことは、知らぬはずだ。
言葉の意味は、いくらでも疑える。だが、声が握っていた事実までは、どうしても疑いきれなかった。そしてその事実のいちばん奥に、たった一文字、「父」が据わっている。それだけが、どう並べ替えても、消えてくれなかった。
クオは、右の手を、ゆっくりと開いた。何も書かれていない、空白の手のひら。闇の中では、それすら見えはしない。けれど指を閉じてみると、たしかにそこに、握るべき何かがあるような気がした。答えではない。問いだ。明日へ持ち越す、たったひとつの問い。
社の外で、風が、また鳴った。
その音を聞きながら、クオはようやく、膝の上に額を戻した。父、という言葉を、まだ胸に抱いたまま。眠りは、今度こそ、ゆっくりと、近づいてきた。
この話の選択肢
- 夜明けに井戸へ引き返し、あの声に「父」のことを問い質す。正史
- 声は信じぬと心を決め、夜明けとともに村も井戸も捨て、街道へ出る。
- それでも村へ戻り、自分の生まれを知る者がいないか、確かめてみる。