NoveLoreノベロア・物語の冒険者ギルド
アルゲンティア戦記all

アルゲンティア戦記空白の手

前の話で選んだ選択肢何も言わず井戸を離れ、今夜は身を休める場所を探す

立ち上がると、膝が軋んだ。

どれだけのあいだ、井戸の縁に座っていたのか分からない。月は中天をとうに過ぎ、村の灯はひとつ残らず消えている。クオは最後にもう一度だけ、闇の底を振り返った。二つの光は、まだそこにあった。瞬きもせず、追ってもこず、ただ静かに灯っている。

——また来い。井戸は逃げん。

その言葉に、うなずきはしなかった。うなずけば、何かを受け入れたことになる気がした。あの声が言ったことの真偽を、クオはまだ、ひとつも確かめられていない。父。生まれた夜。別の理由。どれも、釣り針のように胸に刺さったまま、抜けも、のみ込めもしない。

けれど、今夜はもう、考えるのをやめることにした。声の言うとおりだ。一度に多くをのめば、咽せる。今のクオに必要なのは、答えではなかった。雨露をしのぐ屋根と、横になれる地面。それだけだ。

井戸に背を向け、来た道を戻る。

戻る、といっても、帰る場所があるわけではなかった。納屋は、もう自分の家ではない。今朝、無印と裁かれた時点で、あの村はクオを養う理由を失った。明日の朝、のこのこ戻れば、誰かが箒を持って追い立てるだろう。施しのパンの耳をくれた家も、もう戸を開けはしない。穢れを、わざわざ家の軒先に置いておく者はいない。

では、どこへ。

歩きながら、考える。村の中へは戻れない。戻りたくもない。といって、当てもなく夜の街道へ出るのは、無謀が過ぎた。月明かりだけを頼りに見知らぬ道を行けば、狼に出くわすか、崖から落ちるか、どちらにせよ朝を迎えられない見込みのほうが高かった。十五年、村の中だけで生きてきたクオは、村の外の夜がどれほど深いものか、知識としてしか知らなかった。

結局、足が向いたのは、村はずれの古い社だった。

麦畑の南、街道へ出る手前の辻に、苔むした小さな石の社がある。いつ、誰が祀ったものかも分からない。中の神像はとうに崩れて、今はただ、雨をしのげる屋根と、三方を囲う石壁が残っているだけ。村の子供が肝試しに使うくらいで、大人は寄りつかない。穢れた無印が一晚を過ごすには、ちょうどいい場所だった。誰にもとがめられず、誰にも穢れを移さずに済む。

社の中は、外よりもいくらか暖かかった。

風が、石壁で断たれる。それだけのことが、ひどくありがたく感じられた。クオは外套の前をかき合わせ、冷えた石の床の上に、膝を抱えて座り込んだ。地面からはい上がってくる寒さは、外套一枚では防ぎきれない。けれど、吹きさらしの井戸端よりは、ずっとましだ。

空腹を、ふいに思い出した。

考えてみれば、朝から何も口にしていない。儀式の前は、緊張で喉を通らなかった。儀式の後は、それどころではなかった。今になって、胃の腑が、薄く、執拗に痛む。床下に残してきた銅貨が数枚、頭をよぎったが、それを取りに納屋へ戻る気にはなれなかった。あんな場所のために、危険を冒す価値はない。

代わりに、クオは外套の内側を探った。指先が、硬いものに触れる。今朝、納屋を出るとき、何の気なしに袂に入れた、乾いたパンの欠片。半ば忘れていたそれを、彼は暗がりの中で、ゆっくりと口に運んだ。

硬い。味も、ほとんどない。けれど、かみしめるうちに、わずかな甘みがにじんだ。麦の、ただそれだけの、素朴な甘み。モノをかみ砕く音だけが、社の中に、こり、こり、と小さく響く。

誰も、見ていない。

今朝、広場のあの石段を降りたときも、井戸端で肩を震わせたときも、いつも頭のどこかで、誰かの視線を意識していた。あわれまれている。避けられている。見世物にされている。けれど今、この社の闇の中には、本当に、誰もいなかった。クオを無印と呼ぶ者も、気の毒にと囁く者も、ごめんなさいと唇を動かす者も。

その完全な孤独が、不思議と、ほんの少しだけ、楽だった。

パンを食べ終えると、クオは石壁に背を預けた。冷たい石の感触が、外套越しに、背骨に伝わってくる。目を閉じる。瞼の裏に、今日一日が、断片になって流れていった。光を溜める水晶。三度繰り返された詠唱。掻き消えた文字。割れる人垣。木陰の白い衣。声にならない「ごめんなさい」。そして、闇の底の、二つの光。

——別の理由がある。

また、あの言葉に戻ってしまう。

眠ろう、と思った。考えるのは、明日でいい。今は、ただ眠って、この一日を終わらせてしまいたい。クオは膝を抱え直し、その膝の上に、額をのせた。寒さと、空腹の名残りと、疲れきった体。それでも、神経は妙に冴えて、すぐには眠りが訪れそうになかった。

社の外で、風が鳴っている。

遠くで、夜鳥が一声、啼いた。

明日から、どうやって生きていくのか。クオには、何の当てもなかった。村にはいられない。手には何の格もない。金もない。身を寄せる先もない。十五になったばかりの無印の少年に、この国が用意している場所は、どこにも無い。普通なら、ここで絶望してもいいはずだった。

なのに——胸の奥に、小さな、消えない熾火のようなものが、ひとつだけ残っていた。

別の理由がある。お前が無印と裁かれたのは、欠陥だからではない。

その言葉が嘘か真か、クオにはまだ分からない。けれど、もし——もし、ほんの万にひとつでも、それが真実なら。自分が白紙であることには、神に見放されたという以外の、何か別の意味があるのなら。

その「もし」が、消えてくれなかった。絶望に身を委ねることを、その小さな熾火が、かろうじて、押しとどめていた。

クオは、目を閉じたまま、右の手を、そっと握りしめた。何も書かれていない、空白の手。けれど今は、その空白が、ただの欠落ではないような気が、ほんの少しだけ、していた。

風の音を聞きながら、いつしか、浅い眠りが訪れた。

その夜、クオは夢を見た。けれど目覚めたとき、それが何の夢だったか、もう思い出せなかった。ただ、頬に、乾いたものが一筋、伝った跡だけが残っていた。

この話の選択肢

  1. 夜明けとともに社を発ち、村を捨てて街道を行く
  2. 眠る前に、もう一度だけ井戸の声のことを考える正史
  3. 物音で目を覚ます——社の外に、誰かの気配がある