アルゲンティア戦記父という言葉
前の話で選んだ選択肢井戸の底へ「誰だ」と誰何する
誰だ、と言おうとして、声が出なかった。
喉の奥が、さっきまで嗚咽を堪えていたせいで、まだ強張っている。クオは唾を飲み、もう一度、今度は腹の底から声を押し出した。
「……誰だ」
掠れた。それでも、言えた。井戸の縁を掴む指に、自分でも気づかぬうちに力がこもっている。立ち上がってはいない。逃げ出してもいない。ただ、闇の底の二つの光から、目を逸らさずにいた。
「誰だ、と来たか」
声は、笑った。乾いた、葉擦れのような笑い方だった。嘲りではない。どこか、待ちかねた客がようやく口を開いたのを喜ぶような——そんな響きが、井戸の石壁を伝って昇ってくる。
「名を聞くより先に、誰何するか。いい。悪くない。たいていの子どもはな、坊や、まず『助けて』と言うのだよ。こんな日にここへ辿り着いた子どもならなおさら。神に見放され、村に捨てられ、泣き濡れて——そういう子どもは、闇の底から声がすれば、藁にも縋る。救いだと思いたがる」
クオは答えなかった。声の言うことは、半分は当たっていた。半分は——認めたくなかった。
「お前は縋らなかった。誰だ、と来た。警戒している。けっこうだ。実にけっこうだ」
「質問に答えろ」と、クオは低く言った。「あんたは、誰だ。なぜ、俺の名を知っている」
二つの光が、ゆっくりと瞬いた。瞼を閉じて、また開いたのかもしれない。闇が深すぎて、姿はまるで見えない。声の主が老女なのは、その嗄れた響きからかろうじて知れるだけだ。井戸はクオが見下ろすかぎり、ただ垂直に闇へ落ち込んでいて、底があるのかすら定かでない。
「ひとつずつだよ、坊や。欲張るな」
声は、はぐらかした。
「名はある。が、今のお前に名乗ったところで、それはただの音の連なりだ。意味を持たない。意味を持たせるには、お前がもう少し、知らねばならんことがある。順序というものがある。粥を炊くにも、米を研ぐのが先だろう」
「……俺は粥の話をしてるんじゃない」
「同じことさ」
くつくつ、と声がまた笑った。クオは苛立ちと、それを上回る警戒で、奥歯を噛んだ。この声は、こちらの問いを正面から受けない。受けないまま、それでいて、決してこちらを手放そうともしない。糸の先で何かをぶら下げて、見せて、引く。その手つきが、老獪だった。
「ひとつだけ、答えてやろう。お前の名をなぜ知っているか」
光が、すっと細くなった。
「お前が生まれた夜に、私はその名を聞いたからだ。お前を抱いた者の口から。——十五年前のことだよ、クオ」
クオの息が、止まった。
両親を、彼は知らない。物心ついたときには、育ての老婆と、村はずれの納屋しかなかった。自分がどこから来たのか、なぜ村に居るのか、誰も教えてはくれなかった。問えば老婆は決まって口を噤み、「お前はお前だ」とだけ言った。それ以上は、墓まで持っていった。
その、空白の出生に——この声は、触れた。さらりと、確信をもって。
「……嘘だ」
クオの声が、揺れた。
「あんたが、俺の何を知ってる。生まれた夜だと? 抱いた者だと? 都合のいいことを言って、俺を引きずり込むつもりだろう。今日みたいな日に、弱った人間に、そうやって——」
「そう思うなら、立ち去ればいい」
声は、あっさりと言った。引き止めもしなかった。
「私はお前を縛らない。縛れもしない。私はここから出られんのだからな。お前が背を向ければ、それで終わりだ。私はまた、次の十二年を待つだけだ。あるいは、もう待つ時間が私には残っていないかもしれんが——それはお前の知ったことではない」
クオは、立ち去らなかった。
立ち去れなかった、と言うほうが正しい。背を向ければ終わる、と言われた瞬間、足が動かなくなった。この声が嘘をついているなら、立ち去ればいい。簡単なことだ。なのに——「生まれた夜」「抱いた者」という言葉が、釣り針のように喉に引っかかって、抜けない。それを確かめずに背を向ければ、自分は一生、この井戸のことを考え続ける。そういう予感があった。
声は、それを見透かしていた。たぶん、最初から。
「迷うな、とは言わん」と、闇の底の声は、少しだけ柔らかくなった。「迷え。疑え。それでいい。お前の父は——」
声が、そこで切れた。
言いかけて、呑み込んだ。意図的な間だった。クオが、その一語に食いつくのを、待つかのように。
「……父?」
クオの唇が、勝手にその言葉をなぞった。聞いたことのない響きだった。自分に父がいた、という当たり前の事実すら、これまで一度も、誰の口からも、形にされたことがなかったのだ。
「言っただろう。順序がある」
声は、また退いた。光が、ゆっくりと闇の奥へ沈むように、わずかに遠ざかる。
「今夜はここまでだ、坊や。一度に多くを呑めば、咽せる。お前はもう、今日一日で、十五年ぶんの何かを失ったのだろう。今すぐ、その上に何かを積むな。——だが、これだけは持っていけ」
光が、ふいに、強く灯った。
「お前が無印と裁かれたのは、欠陥だからではない。それだけは、覚えておけ。お前の手が白紙なのには、別の理由がある。それを知りたくなったら、また来い。井戸は逃げん。私も、逃げられん」
それきり、声は黙った。
クオは長いあいだ、井戸の縁に座ったまま、闇の底を見下ろしていた。二つの光は、もう瞬かなかった。けれど、消えてもいなかった。ただ静かに、底のほうで、灯り続けていた。
夜が、更けていく。風が冷たさを増し、崩れた石積みの隙間で、虫が一匹、心細げに鳴いていた。クオは、自分の右の手のひらを、そっと開いてみた。何も書かれていない、白い手。神に判決文すら記されなかった、空白の手。
——別の理由がある。
その言葉が、村人のどんな囁きよりも、セレネのあの「ごめんなさい」よりも、深く、胸の底に降りて、沈んでいった。
この話の選択肢
- 「父のことを話せ」と、声を呼び止める
- 何も言わず井戸を離れ、今夜は身を休める場所を探す正史
- 井戸の底へ下りる手段を探し始める