NoveLoreノベロア・物語の冒険者ギルド
アルゲンティア戦記all

アルゲンティア戦記古井戸の声

前の話で選んだ選択肢何も言わず、踵を返して石段を降りる

クオは、何も言わなかった。弁解も、抗議も、涙さえも、もう意味をなさないと知っていた。無印に向ける言葉を、この村は持っていない。持っていたとしても、それは人間に向けるための言葉ではない。だから彼は、ただ静かに踵を返した。

祭壇の五段を、今度は降りていく。上るときには生涯でいちばん長い階段に思えたそれが、降りるときには、驚くほど短かった。一段、二段——足が地面に着くたび、背後のざわめきが少しずつ遠ざかる。「無印だってよ」「気の毒に」「いや、ああいうのが村に居座るほうが迷惑だ」。声は追ってこなかった。追う価値もない、ということだ。

人垣が、自然と割れた。

それは道を譲る親切ではなかった。穢れに触れぬよう、汚物を避けるように、村人たちが半歩ずつ後ずさる。クオの通り道にだけ、ぽっかりと空白が生まれる。母親たちは我が子の肩を抱き寄せ、そっと視線を逸らした。さっき騎士級を授かった少年だけが、好奇心まじりの目でこちらを見ていたが、その母親に袖を引かれ、すぐに顔を背けた。

ただ、一人だけ。後ずさらない者がいた。

人垣の切れ間、少し離れた木陰に、白い衣の少女が立っていた。神殿付きの聖女候補にだけ許される、清廉な白。三日前、王級《聖光》を授かって、この村の誰も立ったことのない高みへ昇っていった少女——セレネ。クオの、ただ一人の幼馴染だった子。

二人の目が、合った。

セレネは後ずさらなかった。穢れを避ける村人たちの中で、彼女だけが、まっすぐにクオを見ていた。その瞳が、揺れていた。何かを言いたげに、唇がわずかに開く。声にはならない。けれど、その形を、クオは読めてしまった。

——ごめん、なさい。

なぜ、謝る。問い返す資格も、もう自分には無い気がした。住む世界が、今日を境に完全に分かれた。王級の聖女候補と、人間ですらないと裁かれた無印。同じ言葉を交わせる距離は、もうどこにもない。

だからクオは、彼女が次の言葉を紡ぐより先に、背を向けた。拾わなかった。拾えなかった。その「ごめんなさい」が何を意味するのか、確かめてしまえば、まだ自分の中に未練が残っていることを認めることになる。それだけは、嫌だった。

広場を抜ける。幟の色が背中で遠ざかる。祝祭の喧騒が、薄い膜の向こうの出来事のように聞こえる。今日のこの村は、新しい騎士級の誕生に沸くのだろう。葡萄酒の樽が開けられ、白パンが配られ、夜には篝火が焚かれる。その輪の中に、クオの席は最初から無い。あったためしが、無い。

不思議と、惨めさは薄かった。

惨めさを感じるには、失うものが要る。期待が要る。けれどクオは、たった今、最後の期待を祭壇に置いてきたばかりだった。十五年ぶんの望みを白紙のまま握りつぶされて、もう、握るものが何もない。空っぽの手は、軽い。皮肉なことに、足取りだけは、これまでのどの朝よりも乱れがなかった。

村はずれの一本道に出たころには、もう誰の視線も追ってこなくなっていた。

風が、麦の穂を撫でていく。朝の光は容赦なく明るく、世界はクオの判決などまるで関心がないというふうに、ただ美しかった。鳥が鳴く。雲が流れる。神に人間ですらないと裁かれた少年が一人歩いていようと、世界は何ひとつ変わらない。その無関心が、村人の囁きよりも、よほど静かにこたえた。

納屋には、帰らなかった。帰ったところで、藁の寝床と、隙間風と、銅貨が数枚あるだけだ。それに——今日を境に、村はもう、無印を養いはしないだろう。施しのパンの耳も、今日で終わる。明日からは、この村に居場所がないことが、誰の目にも公然の事実になる。十五で神授を終えた者は、もう子供ではない。子供でない無印を、誰が食わせる。

足は、自然と村のさらに外れへ向かっていた。人の通わない、古い小道。雑草が膝まで伸び、両脇には朽ちかけた石積みが続く。かつてここにも家があったのだろう、今は崩れた土台だけが残る一角。その先に、ぽつんと、古い井戸があった。

苔むした石組み。半ば崩れた木の蓋。村の誰も使わなくなって久しい、忘れられた井戸。クオが幼いころ、老婆が「あそこには近づくな」とだけ言って、理由は教えてくれなかった場所。

なぜ、ここへ来たのか。自分でも分からなかった。ただ、誰の目もない場所が欲しかった。憐れまれも、避けられも、囁かれもしない、世界からも村からも切り離された、空白のような場所が。

クオは井戸の縁に腰を下ろした。膝を抱え、額をうずめる。泣くつもりはなかった。泣くだけの感情も、もう残っていないと思っていた。けれど、誰も見ていないと分かった途端、喉の奥が、熱く、固く詰まった。さっきのセレネの唇の動きが、瞼の裏に焼きついて離れない。十五年。空気のように扱われ、無縁仏と呼ばれ、それでも今日という日に、ほんの少しだけ、何かが変わるかもしれないと——賭けていないふりをして、賭けていた。

その賭けに、負けた。肩が、小さく震えた。声は出さなかった。出し方を、知らなかったのかもしれない。

——どれくらい、そうしていただろう。井戸の底から、声がした。

「……ようやくか」

老いた、女の声だった。乾いて、低く、井戸の石壁に反響して、どこから聞こえてくるのか分からない。クオは弾かれたように顔を上げた。あたりには、誰もいない。崩れた石積み、伸びた雑草、流れる雲。人の気配は、どこにも。

「下だよ、坊や」

声は、確かに——井戸の、闇の底から、昇ってきていた。クオは恐る恐る、縁から身を乗り出して覗き込む。深い、暗い縦穴。底は見えない。けれどその闇の奥で、二つの小さな光が、燐(りん)のように、ぼう、と灯っていた。

人の、目のように。

「十二年、待った」と、声は言った。「お前がここへ来るのをね、クオ」

——なぜ、名を。村でただ一人、誰からも名を呼ばれることのなかった少年の名を、井戸の底の闇が、確かに、知っていた。

この話の選択肢

  1. 井戸の底へ「誰だ」と誰何する正史
  2. 声を無視して、その場を立ち去る
  3. 「なぜ俺の名を知っている」と問う