アルゲンティア戦記神授の儀
夜明け前から、村は妙に静かだった。
普段なら一番鶏が鳴くより先に井戸端へ向かう女房たちが、今朝は家の中で子の身支度に追われている。年に一度の《神授の儀》。十五を迎えた子供が神からスキルを授かる、この国でただ一日きりの特別な朝だ。麦畑のあいだに点在する石造りの家々から、いつもとは違う匂いが流れてくる。祝いのために焼かれる白パン。普段は祭りの日にしか開けない、樽の底の葡萄酒。貧しい村なりの、精一杯の晴れ着の支度。
アルゲンティアでは、十五の歳に授かるスキルが、その人間の一生をおおむね決めてしまう。神級、王級、騎士級、平民級——授かった格がそのまま社会での席次になる。騎士級が出れば領主の兵に取り立てられ、家ごと身分が上がる。平民級でも、職人や農夫として一人前の証になる。逆に格が低ければ、どれだけ本人が利発でも、生涯その評価はついて回る。スキルは神が各人に書き込む一行の判決文で、人はその一行を抱えて死ぬまで歩く。だからこの朝、村じゅうの親が祈っていた。どうかうちの子に、まともな一行が灯りますように、と。
クオには、祈ってくれる親がいなかった。
村はずれ、麦畑の北の縁にある崩れかけた納屋。そこが彼の家だった。元は穀物を寝かせるための小屋で、隙間風が冬には牙のように吹き込む。藁を敷いた一角が寝床で、壁の釘には外套が一枚。床板の下に、村人が施しに置いていく古い銅貨が数枚。それがクオの全財産だった。両親の顔は知らない。物心ついたときには、もうこの納屋にいた。育ててくれたのは近所の老婆——耳が遠く、口の悪い、けれど飯だけは欠かさず分けてくれた女だったが、三年前の冬に咳をこじらせて死んだ。それからは、本当に一人だ。
「無縁仏の子」。村人は陰でそう呼ぶ。誰の血筋でもなく、誰の縁にも連ならない、宙ぶらりんの存在。子供たちは親に言い含められて、クオと深く関わろうとしない。畑仕事を手伝えば駄賃の代わりにパンの耳をくれる家もあるが、それは情けであって、対等のつき合いではなかった。クオはこの村で、空気のように扱われることに慣れていた。いてもいなくても、誰の暮らしも変わらない。そういう十五年だった。
だから、儀式に過剰な期待はしない。何度も自分にそう言い聞かせて、外套の襟を整え、納屋を出た。——けれど、広場へ続く一本道を歩くあいだじゅう、心臓は痛いほど鳴っていた。
認めたくはないが、賭けているのだ。今日この一日に、十五年ぶんの望みを。良い格でなくていい。騎士級なんて高望みはしない。平民級で、いや、たとえ最も低い格でもいい。何か、世間が「こいつは使える」と認める一行さえ灯れば。それを手土産に村を出て、どこか遠くの町で、まっとうな職に就いて、誰かの隣に立てるかもしれない。空白だった人生に、初めてまともな一行が書き込まれるかもしれない。その一点に、クオは全部を賭けていた。賭けていないふりをして、賭けていた。
礼拝堂前の広場には、もう村じゅうの人間が集まっていた。色の褪せた幟が朝風に鳴り、祭壇代わりの古い水晶が、堂の前で鈍く光を溜めている。儀式を司るのは、隣町から年に一度招かれる老神官だ。子供たちは背の順に並ばされ、親たちはその後ろで固唾を呑む。空気は祭りのようでいて、どこか張り詰めていた。神の前で家の格が露わになる朝は、希望と恐れが背中合わせなのだ。
順番が、一人ずつ進む。神官が手をかざし、古い神言を唱えるたび、子供の手の上に淡い文字が結ばれる。
「平民級——《耕作》!」痩せた農夫が、両手で顔を覆ってむせび泣いた。豊作の加護。貧しい家にとっては、これ以上ない誉れだ。周りの者が肩を叩いて祝う。
「騎士級——《剛腕》!」今度は広場が割れんばかりの歓声に包まれた。騎士級は滅多に出ない。授かった少年は呆然と自分の手を見つめ、母親が誇らしさのあまり泣き崩れている。明日からこの家は、村で一番の家になる。一つの文字が、一族の運命をまるごと書き換えた瞬間だった。
一人、また一人。歓声と、安堵と、ささやかな落胆。けれどそのすべてに、共通することがあった。全員に、文字が灯った。当たり前のことだ。神授とは、そういうものだから。格の高低はあれど、神は必ず、誰かの手に一行を書き込む。白紙で終わる者など、いない。——いるはずが、ない。
やがて、列が短くなり、クオの番が来た。祭壇への石段は、たった五段。その五段が、生涯でいちばん長い階段に思えた。一段上がるごとに、背後のざわめきの質が変わるのが分かる。歓声がやみ、囁きが満ちる。「あの納屋の子だ」「無縁仏の」「神様も、ああいうのには何を授けるんだろうね」——悪意というより、純粋な好奇。見世物を見るような、無遠慮な視線が、何十も背中に刺さった。クオは聞こえないふりをして、ただ前を見て、神官の前に進み出た。
老神官の目が、こちらを見た。そこにあったのは、嘲りではなかった。むしろ、わずかな憐れみ。長年この儀式を司ってきた者の目が、クオの薄汚れた外套と、孤独の匂いを正確に読み取っていた。その憐れみが、何より嫌だった。期待されないより、憐れまれるほうが、ずっと惨めだ。
「手を、かざしなさい」言われるまま、クオは右手を水晶の上にかざした。石の冷たさが、指先から手首へ這い上がる。神官が詠唱を始めた。古い神言が空気を細かく震わせ、水晶が、内側から淡く発光しはじめる。クオの胸の奥——ずっと空っぽだったあの場所で、何かが応えるように、とくり、と疼いた。
来る。喉まで、願いがせり上がった。何でもいい。何か、灯ってくれ。一行でいい。俺がここにいていい理由を、一文字でいいから、書いてくれ。
光が、神官の指先に集まっていく。文字が、結ばれようとする。その輪郭が、生まれかけて——ふっ、と。消えた。吹き消された蝋燭のように、あっけなく。後には、何ひとつ残らなかった。水晶の光が褪せ、神官の指先が、ただ虚空を撫でた。
広場が、静まり返った。神官が、眉を寄せた。こんなことは滅多にない、という顔だった。彼はもう一度、念を入れて手をかざし直す。詠唱を、初めから繰り返す。水晶は再び光り、文字は再び生まれかけ——そして、また、白紙のまま、掻き消えた。三度目はなかった。
老神官は長い、長い息を吐いた。そして、憐れみすら脇に置いた、ただ事実だけを告げる平らな声で、言った。「……無印(ナル)。神は、この子に何も授けなかった」
その一言が、広場の温度を変えた。静寂は、ほんの一拍。それから、堰を切ったようにざわめきが広がった。「無印だ」「聞いたことないぞ、この村で」「あの歳まで来て、白紙か」「だから無縁仏なんだ、根っこから神に見放されてる」——声は遠慮なく飛び交い、けれどそのどれ一つとして、クオ本人にまっすぐ向けられはしなかった。彼を素通りして、彼の頭上で交わされる。そこに人間が立っていることなど、もう誰も勘定に入れていないかのように。
クオは、祭壇の上で、自分の右手を見つめていた。何の文字も、宿っていない。ついさっきまで賭けていた十五年ぶんの望みが、今、白紙のまま握りつぶされた。神は判決すら下さなかった。有罪でも無罪でもなく、ただ——空欄。この国の物差しで言えば、クオはたった今、人間ですらない何かに分類されたのだった。
背後で、誰かが小さく笑った。誰かが、気の毒に、と呟いた。その二つの声が、同じくらいの距離から聞こえることが、ひどく現実離れして感じられた。
この話の選択肢
- 顔を伏せず、黙って人垣を見渡す
- 何も言わず、踵を返して石段を降りる正史
- 神官に「もう一度」と静かに請う