アルゲンティア戦記灯りの巷
前の話で選んだ選択肢礼を言って独り、夜の町へ出て、自分の目で町を見て回る。
「世話になった。少し、町を見てくる」
そう言って頭を下げると、ガロは意外そうに眉を上げ、それから、可笑しそうに喉を鳴らした。
「物好きな坊主だ。だが、まあいい。──財布の紐だけは、締めておけよ。夜の町ってのは、田舎者の懐から銭を抜く手が、いくらでも伸びてくる」
女将も、太い腕を組んで、クオを見やった。「迷ったら、麦穂の看板をお探し。この町じゃ、ここいらでいちばん古い宿だ。誰に訊いたって、すぐ分かるよ」
クオは、小さく頷いた。礼の言葉は、まだ口に馴染まない。それでも、村を出てからの幾日かで、頭を下げることと、礼を言うことを、少しずつ覚えはじめていた。村にいた頃は、そのどちらも、する相手が、いなかった。
宿の戸を押して、夜の中へ出る。
大通りは、まだ眠っていなかった。それどころか、夜が更けるほどに、熱を増していくようだった。軒を連ねる店々は、どこも灯りを煌々と点し、開け放った戸口から、人の声と、湯気と、香ばしい匂いを、通りへこぼしている。石畳は、昼の名残の熱と、無数の足が運んでくる温もりとで、ほのかに温かかった。クオは、その流れの端に立って、しばらく、ただ、見ていた。
人が、多い。
それも、村のように、互いの顔と名と格を知り尽くした人々ではない。誰もが、誰のことも知らぬまま、すれ違い、肩をぶつけ、また離れていく。商人らしい身なりの者、剣を佩いた傭兵風の男、頭から布を被った女、母に手を引かれて眠そうに歩く幼子。荷を担ぐ者、杯を手に笑う者、軒先で値を競る者。それぞれが、それぞれの暮らしと事情を抱えて、この一夜の中に、ひしめき合っていた。
クオは、流れに逆らわぬよう、ゆっくりと歩き出した。
通りの両側には、見たこともない品々が、並んでいた。色とりどりの布が、店先で夜風にそよぐ。鈍く光る鍋や刃物が、台の上に、隙間なく積まれている。籠に山と盛られた果実は、村では年に一度、祭りの日にだけ口にできたものだった。香を焚く店、薬草を軒に吊るす店、文字の書かれた紙の束を扱う店——何を商っているのか、クオには見当もつかない店も、いくつもあった。世界には、こんなにも多くの「もの」があり、こんなにも多くの「商い」がある。村の畑と、納屋と、石造りの家しか知らなかった目に、その一つひとつが、まぶしかった。
ふと、足が止まった。
一軒の屋台から、湯気が、立ちのぼっていた。鉄鍋の中で、何かの汁が、ぐつぐつと煮えている。肉と、香草の匂い。空きっ腹が、ぎゅう、と鳴った。クオは、思わず、懐へ手をやった。
指先に、銅貨が触れた。
冷たく、硬い、数枚の銅貨。荷を運んで、自分の手で得た金だ。これがあれば、あの温かい一杯を、買えるかもしれない。買って、いいのだ。誰の許しも要らない。施しでもない。自分の働きで得た金で、自分の腹を満たす——それは、村では、一度も許されなかったことだった。
けれど、クオは、銅貨を握ったまま、動かなかった。
この数枚が、今の自分の、すべてだった。明日、どこへ行くのかも、どうやって食べていくのかも、まだ、何も決まっていない。今ここで使えば、それきり、消える。飢えと、自由は、同じ手のひらの上に、載っていた。——結局、クオは、屋台に背を向けた。匂いを断ち切るように唾を呑み込んで、また、歩き出す。腹は鳴ったが、足は、止まらなかった。
大通りを抜けると、ひときわ広い、篝火の焚かれた広場に出た。
その一角に、人だかりが、できていた。クオは、何があるのかと、輪の後ろから、爪先立ちに覗き込んだ。
篝火の灯りの中に、一人の男が、腕を組んで立っていた。革の鎧をまとい、腰に長剣を佩いている。傍らには、木の立て札が置かれ、何やら文字が書きつけてあった。クオには、字は読めない。だが、男の足元に並べられたものを見て、おおよその見当はついた。割れた岩。へし折れた丸太。そして、鉄の棒が一本、飴のように曲げられて、転がっている。
見物人の一人に何か囃され、男は、ふっと笑った。足元の、別の鉄の棒を拾い上げると、両手で、ぐ、と握る。一瞬、その腕に、淡い光のようなものが、走った気がした。次の刹那、太い鉄の棒が、まるで濡れた藁のように、たやすく、へし曲がった。
見物人から、どよめきと、まばらな拍手が、起こった。
——格だ、とクオは思った。
あの男は、おそらく騎士級か、それに近い格のスキルを授かった者だ。膂力を増す類いの。村でも、噂には聞いたことがある。格を持つ者は、ああして人前で技を披露し、銭を稼ぎ、あるいは雇い主を探す。腕一本で、傭兵に、用心棒に、見世物になる。格とは、この世界では、そのまま、食い扶持であり、その者の値打ちだった。
クオは、人だかりの後ろで、自分の手のひらを、そっと、見下ろした。
そこには、何の光も、走らない。鉄の棒を握ったところで、曲がるのは、きっと、クオの指のほうだ。無印——何も書かれていない、空白の格。この町では、まだ、誰もそれを知らない。けれど、知られていないだけで、消えたわけではなかった。今は、雑踏に紛れていられる。だが、いつか、この世界で自分の足で立とうとすれば、必ず、問われるだろう。お前は、何級だ、と。そのとき、自分には、見せられる光が、何一つ、ない。
村も、井戸の底の声も、ここまでは追ってこない。けれど、自分が無印であることだけは、影のように、どこまでも、ついてくる。
自由とは、束の間のものだ。誰も自分を知らないということは、過去から切り離されることであると同時に、自分が、何者でもない、ということでもあった。村では、無印という名の檻があった。ここには、檻は、ない。代わりに、足場も、ない。クオは、握りしめた銅貨を、もう一度、確かめた。この数枚と、この身一つ。それが今、世界に対して、自分が差し出せる、すべてだった。
篝火が、ぱちりと爆ぜた。男はまた一つ、見物人の求めに応じて、岩を砕いてみせている。
クオは、ゆっくりと、その輪から離れた。広場には、まだ、見るべきものが、いくつもあった。篝火のそばで腕を売る、あの男。灯りの輪のすぐ外側で、ふいに闇へ沈んでいく、細い裏通りの口。——そして、広場の向こう。そちらの一帯だけが、ほかより一段と明るく、夜を押しのけるように、金色に濡れていた。濃く連なる灯りの群れ。行き交う人々の、ひときわ上等な身なり。あの先には、この町の、もっと華やかな何かがあるらしい。夜は、長い。クオは、息を一つ吐いて、次の一歩を、どこへ踏み出すか、考えた。
この話の選択肢
- 広場の向こう、ひときわ明るい一帯へ──この町のいちばん華やかな場所を、自分の目で見に行く。正史
- 篝火の男のそばへ戻り、「格を売る」とはどういうことか、もっと近くで確かめる。
- 灯りの輪を外れ、人の目の届かない裏通りの暗がりへと、足を向ける。