アルゲンティア戦記残る声
前の話で選んだ選択肢申し出は断り、独りで、もう少しこの華やかな一帯を、見て回る。
クオは、ザイルの、見透かすような目を、まっすぐに、見返した。そして、ゆっくりと、首を、横に振った。
「……ありがたい話だ。だが、やめておく」
自分でも、意外なほど、はっきりとした声が、出た。
ザイルは、片眉を、上げた。「ほう。腹が減ってるんだろう。寝床も、ないんだろう。それでも、断るか」
「ああ」クオは、頷いた。「……まだ、この町に、来たばかりだ。何も、見ていない。何も、知らない。あんたの申し出が、いいものなのか、悪いものなのかも、俺には、まだ、分からない。それを、確かめもせずに、いちばん最初に声をかけられた所に、飛びつくのは……なんだか、違う気がする」
言葉にしながら、クオは、自分の中の、漠然としていた思いが、少しずつ、形になっていくのを、感じた。あの歌に、心を動かされた。それは、本当だ。けれど、それが、本物の感動なのか、それとも、生まれて初めて見た華やかさに、ただ目が眩んだだけなのか——まだ、分からない。村と、街道と、この町しか知らない自分には、比べるものが、なさすぎた。だから、もっと、見なければならない。村にいた頃の自分なら、腹を満たし、雨風をしのげる申し出と聞けば、後先も考えず、縋りついていたかもしれない。けれど、いまは、なぜか、そうしたくは、なかった。
「自分の目で、もう少し、見て回りたい。話は……それからだ」
ザイルは、しばらく、黙って、クオを見ていた。それから、ふっと、肩の力を抜くように、笑った。今度の笑みは、冷ややかでは、なかった。
「……賢しい餓鬼だ」と、ザイルは、言った。どこか、感心したような響きが、混じっていた。「いいだろう。気が変わったら、この楼を訪ねてこい。麦穂亭の女将にでも訊けば、俺の名は、通ってる。——ザイルだ。覚えておけ」
そう言い残すと、ザイルは、もう、クオを引き止めようとは、しなかった。蹵を返し、楼閣の、裏手のほうへと、ゆったりと、歩み去っていく。その背中は、最後まで、何を考えているのか、読ませなかった。
独りに、なった。
クオは、ふう、と、息を吐いて、また、歩き出した。今度は、誰に促されるでもなく、自分の、足で。
華やかな一帯は、まだ、眠らなかった。歩いていくと、別の楼の前でも、人だかりが、できていた。覆いてみれば、そこでも、歌い手が、歌っている。今度は、若い、華やいだ声だった。聴いている客は、皆、上機嫨で、手を叩き、囃し立てている。
クオも、足を止めて、聴いてみた。
上手い、と思った。明るく、伸びやかで、聴いていると、心が、浮き立つような歌だった。けれど——それだけ、だった。歌が終わっても、クオの胸には、何も、残らなかった。先ほどの、あの夜啼鳥の歌のように、胸の奥の、名前のつかない何かを、揺らすような感覚は、どこにも、なかった。
クオは、また、歩いた。
別の楼では、舞い手が、舞っていた。色とりどりの領巾を、夜風に、翻して、まるで、灯りそのものが、形を得て、踊っているようだった。さらに別の一角では、見たこともない楽器を抱えた楽師たちが、輪になって、不思議な音色を、奏でていた。広場の隅では、火を、口から吹く男が、見物人の悲鳴と歓声を、浴びている。その向こうでは、長い剣を、喉の奥へ、呼み込んでみせる女が、いた。この一帯には、ありとあらゆる、美しいものと、珍しいものとが、夜ごとの銭を求めて、惜しげもなく、その技を、晃し合っていた。どれもが、村の祭りでなら、幾年も語り草になるような、見事なものばかりだった。
クオは、その一つひとつを、丁寧に、見て回った。急ぐ旅でも、なかった。今夜だけは、ただ、この目で、世界というものを、確かめておきたかった。
そして、いくつもの華やかさを、見て、聴いて、比べたあとで——クオは、ようやく、確かめることが、できた。
どれも、美しかった。どれも、村では、見ることの叶わなかった、見事なものだった。明るい歌は、聴く者の心を、浮き立たせた。華麗な舞いは、目を、奪った。けれど——それらは、どれも、見ているその場かぎりのものだった。その場を離れれば、すっと、心から、抜けていく。なのに、あの、夜啼鳥の歌だけが——今も、耳の奥に、残っている。あれだけが、特別だった。初めて見た華やかさに、ただ、目が眩んだ、というのとは、違う。いくつもの華の中に置いても、あの哀切な声だけは、なぜか、消えずに、胸の底に、沈んだまま、いた。
それが、なぜなのか、クオには、まだ、うまく、説明できなかった。ただ、思うのは——あの歌だけが、聴く者を楽しませようとも、感心させようとも、していなかった、ということだった。あの声は、ただ、何か、失われたものを、静かに、悼んでいた。そして、その哀しみが、なぜか、クオ自身の中の、まだ名前もつかぬ、欠けた何かに、触れたのだ。それを、確かめられた、ということが、大事だった。自分の心が、生まれて初めての幻惑に、ただ流されたのでは、なかった、ということが。
気づけば、人通りも、少しずつ、まばらに、なりはじめていた。あれほど煌々と灯っていた一帯も、いくつかの楼では、もう、灯りが、落とされている。夜の、いちばん深い時刻が、近づいていた。
クオは、自分が、ずいぶん、長いこと、歩き回っていたことに、気づいた。空きっ腹は、もう、麻痺したように、感じなくなっていた。ただ、足が、重い。村を出て、街道を歩き、町に着き、夜通し、見て回って——さすがに、疲れて、いた。
懐の、銅貨を、確かめる。数枚。それだけ。けれど、今夜の宿は、麦穂亭に、頑んである。あの女将なら、たとえ遅くなっても、戸を、開けてくれるだろう。
クオは、もう一度だけ、振り返って、あの、夜啼鳥のいた楼閣のほうを、見た。高欄は、暗い。歌い手の姿は、もう、ない。それでも、あの声の余韻は、まだ、胸のどこかで、かすかに、鳴り続けているような気が、した。
夜は、深い。だが、まだ、終わってはいなかった。クオは、ひとつ、息を吐いて、考えた。今夜の、残りを、どう過ごすか。
この話の選択肢
- 麦穂亭へ戻り、今夜は休んで、明日からのことを、改めて考える。
- 眠る前に、もう一度だけ、あの夜啼鳥のいた楼閣の前に、立ってみる。正史
- 華やかな一帯を出て、まだ灯りの残る別の通りへ——この町の、まだ見ぬ顔を、探しに行く。