アルゲンティア戦記誰も聴かぬ歌
前の話で選んだ選択肢眠る前に、もう一度だけ、あの夜啼鳥のいた楼閣の前に、立ってみる。
夜啼鳥の楼閣は、来た道を少し戻ったところにあった。クオは重い足をそちらへ向けた。理由は自分でもうまく言えなかった。歌い手がもう高欄にいないことくらい分かっている。それでも、眠る前にもう一度だけ、あの楼の前に立っておきたかった。それだけだった。
人通りはもう、ほとんど絶えていた。さっきまであれほど押し合いへし合いしていた道が、嘘のように静まり返っている。石畳の上には、誰かの落とした花や食いさしの串が、散らばったまま冷えていく。屋台のあった場所には、油の匂いだけがうっすらと残っていた。祭りのあとの、気の抜けたような匂い。すれ違うのは店じまいを終えた男や、酔いつぶれた客を担いで運ぶ下働きの者たちばかりで、誰もクオを見なかった。ついさっきまで銭の匂いに沸いていた通りは、灯りを落とすとただの狭くて薄暗い路地に戻り、そこを歩く痩せた小僧のことなど、もう誰も気に留めなかった。
楼閣の前に着いた。
見上げる。高欄にはもう、誰もいない。あの歌い手が立っていた場所は、ただの暗がりに戻っていた。軒に連なっていた灯りも、いまはその大半が落とされている。下働きらしい男がひとり、長い棒の先で残りの灯りをひとつ、またひとつと消して回っていた。灯りが消えるたびに、楼の輪郭が少しずつ夜に溶けていく。宵のあいだあれほど大きく輝いて見えた建物が、いまはただ黙って、夜の底に沈もうとしていた。
クオは通りの反対側の壁際に立って、それを見ていた。
何を期待して来たのだろう、と思った。もう一度あの歌が聴けるとでも思ったのか。そんなはずはない。宴の刻限はとうに過ぎている。歌い手は歌い終えて、楼の奥へ引き取ったのだ。ここにあるのは、灯りの落ちたただの大きな建物だった。それでも――来てよかった、と思った。宵の華やかさだけを見てこの楼を知った気になるのは、たぶん違う。飾りを剥ぎ取られたあとの姿を見ておくことも、この町を知ることのひとつのような気がした。人も、きっと同じなのだろう。昼の顔と夜の顔があり、灯りの下の顔と、灯りが消えたあとの顔がある。クオはまだ、そのどれも知らなかった。
最後の灯りが消えた。下働きの男は棒を担ぎ、あくびをひとつ落として裏手へ消えた。
通りに、本当の静けさが降りた。遠くで犬が一声だけ吠え、それきりだった。
帰ろう、と思ってクオが踵を返しかけた――その時だった。
歌が聴こえた。
クオは動きを止めた。
ほとんど聴こえないほどの、かすかな声だった。楼の高いところ、閉てられた窓のどれかの奥から、糸のように細く洩れてくる。囃す楽の音もない。聴かせるための張りもない。ただ口の中で転がすように、低く調べをたどっている。歌というより、吐息に旋律が混じってしまった、とでもいうような幽かさだった。夜風が少しでも強く吹けば、それだけで掻き消えてしまうだろう。だが、間違えようがなかった。あの声だった。あの歌だった。宵に高欄の上から大勢の客へ向けて歌われていたのと、同じ調べ。なのにそれは、同じ歌でありながら、まるで別のもののように聴こえた。
宵の歌が磨き上げられた銀の器だったとすれば、いま洩れてくるこれは、器に盛られる前の水そのものだった。飾りがない。技もない。声を張ることさえしていない。ただ悼みだけが、剥き出しのままそこにあった。聴く者を楽しませようという心づかいも、感心させようという企みも、そこには微塵もなかった。
誰も聴いていないと思っているのだ、とクオは悟った。灯りは落ちた。客は帰った。銭を払う者はもう、この通りのどこにもいない。それでもあの歌い手は歌っている。ということは、あの歌は銭のために歌われていたのではない。宵の高欄の上でも、きっとそうだったのだ。あれは売り物の形をしているだけで、本当はずっとこういう歌だった。誰かを楽しませるためでなく、誰かに聴かせるためですらなく、ただ何かを悼むためだけの。銭はあとから勝手についてくる、それだけのものだったのだ。
クオは声をかけなかった。足音も立てなかった。息すら浅くした。ただ暗い通りのこちら側に立ち尽くして、その糸のような声が夜気を渡ってくるのを聴いていた。盗み聴きをしているといううしろめたさが、なくはなかった。これはたぶん、誰にも聴かれるつもりのない歌だ。それでも、離れることができなかった。背中に染みる壁の冷たさも忘れていた。
歌は長くは続かなかった。調べの途中でふっつりと、糸が切れるように絶えた。あとにはもう、何も聴こえなかった。窓の奥で人の動く気配すらしない。まるでいまのが、夜の耳鳴りででもあったかのように。それとも歌い手自身が、自分の声に気づいて口を噤んだのか。
クオはしばらく、その場を動けなかった。
それから暗い楼を、もう一度だけ見上げた。名も知らず、素性も知らず、言葉ひとつ交わしたことのない歌い手。楼の客たちはその声だけを愛でて銭を落としていく。ザイルのような男は、その声を飯の種として差配する。けれど、いまのを聴いてしまった以上、クオにはもう、あれがただの見世物の華だとは思えなかった。あの高い窓の奥にいるのは、自分と同じように、何かを失くしたまま、その失くしたものに名前をつけられずにいる誰かなのだ。それが何なのかは分からない。訊く筋合いもない。ただそのことだけが、夜気のように静かに腑へ落ちた。
夜風が通りを抜けていった。クオは擦り切れた外套の襟をかき合わせた。張りつめていたものが緩んだせいか、急に疲れが足の裏からのぼってくる。今日は長い一日だった。生まれて初めての町。生まれて初めての駄賃。生まれて初めての歌。
麦穂亭に戻ろう。あの女将の太い声と固い寝床が、いまはひどく恋しかった。クオは灯りの落ちた楼閣に背を向けて歩き出した。石畳を踏む自分の足音だけが、静かな通りに響く。耳の奥ではまだ、あの糸のような歌の切れ端が鳴っていた。それは麦穂亭の戸を叩くまで、消えなかった。
この話の選択肢
- 麦穂亭へ戻って眠る。翌朝、これからの身の振り方を、女将に相談してみる。
- 麦穂亭へ戻って眠る。だが翌日の夜、もう一度あの歌を聴きに、楼の前へ行くと決める。
- 眠る前に、ザイルの申し出を考え直す――あの楼で働けば、あの歌の近くにいられる。