アルゲンティア戦記夜啼鳥
前の話で選んだ選択肢男に「あの歌い手は、誰だ」と尋ねる。
「……あの歌い手は、誰だ」
クオは、男を見上げて、そう、問うた。声に出してから、自分でも、なぜそんなことを訊いたのか、分からなかった。場違いな自分が、こんな所で、見ず知らずの男に、訊くようなことではない。頭の隅では、そう、分かっていた。それでも、訊かずには、いられなかった。あの声の主が、何者なのか。どうしても、知っておきたかった。胸の奥の、まだ、ざわついている何かが、そう、急かしていた。
男は、ふっと、口の端を歪めた。笑った、というには、冷ややかな表情だった。値踏みするような目が、改めて、クオの、汚れた身なりを、上から下まで、なぞっていく。
「ほう。坊主が、あれの名を訊くか」男は、おもしろがるような、それでいて、どこか醒めた声で、言った。「身なりを見るに、ここいらに通う客じゃあ、なさそうだが。……それとも、あの声に、足を止められた口か」
「……ああ」クオは、正直に、頷いた。取り繕う理由も、隠す気も、なかった。「あんな歌は、聞いたことがない」
男は、しばらく、黙って、クオを見ていた。その目から、最初の、虫けらでも見るような冷たさが、わずかに、引いていく。値踏みの色は、消えない。けれど、その奥に、何か——興味とも、戸惑いともつかぬものが、ゆっくりと、灯りはじめるのが、クオにも、分かった。
「……あれはな」と、男は、ようやく、口を開いた。「この楼で、いちばんの歌い手だ。ここいらの楼は、どこも歌い手や舞い手を抱えているが、あれの右に出る者は、いない。客は、あれの声を聴くためだけに、何日もかけて、遠くからでも、通ってくる。名の通った商人も、剣を佩いた貴族も、あの一節のために、惜しげもなく、銭を積んでいく」
男は、言葉を切って、背後に聳える、楼閣の高い影を、見上げた。二階の高欄は、もう、暗い。歌い手の姿は、とうに、紗の奥へ、消えていた。
「だが——本当の名は、誰も知らん。どこの生まれかも、いつからここにいるのかも、な。あれ自身が、何ひとつ、語らんからだ。だから客は、勝手に、異名で呼んでいる。あの、夜更けに啼くような声から取って——『夜啼鳥(よなきどり)』と」
夜啼鳥。
クオは、その言葉を、口の中で、そっと、繰り返した。夜に啼く、鳥。なるほど、あの哀切な歌には、似合いの名だ、と思った。けれど、それを聞いて、胸に、別の何かも、引っかかった。名を、語らない。生まれも、知れない。素性の、すべてが、霧の中にある。——それは、まるで。
クオは、ふと、自分のことを、思った。無縁仏の子。親の顔も、生まれた場所も知らぬまま、村の隅で、空気のように生きてきた、自分のことを。あの、灯りに照らされた高欄の上の歌い手と、この、薄暗い石畳の隅に立つ自分とは、天と地ほども、隔たった世界にいる。なのに、ただ一点、『素性の知れなさ』という、その一点だけで、奇妙に、細い糸のように、繋がってしまった気がした。むろん、向こうは、こちらのことなど、知りもしないだろう。それでも、その思いは、消えなかった。
「気になるか」
男の声に、クオは、我に返った。いつのまにか、自分が、ずいぶん長いこと、黙り込んでいたことに、気づいた。男は、腕を組んだまま、クオを、じっと、見下ろしている。先ほどよりも、いくらか、まじまじと。その目の奥の光が、確かに、変わっていた。
「妙な坊主だ」と、男は、ぼつりと言った。「物乞い同然の身なりで、この一帯に、平気で迷い込んでくる。並の餓鬼なら、こんな場所、気後れして、近づきもせん。来たところで、店の灯りと、客の身なりに、目を奪われて終わりだ。だが、お前は——あの歌に、本気で、聴き入っていた。歌が終わっても、しばらく、動けずにいた。……俺は、長いこと、この楼で、人の出入りを見てきたが、ああいう聴き方をする餓鬼は、滅多に、いない」
男は、そこで、少し、間を置いた。それから、不意に、問うた。「銭は、あるのか」
その問いに、クオは、答えに詰まった。懐の奥の、数枚の銅貨。荷を運んで、自分の手で得た、たった、それだけ。それが、今の自分の、全財産だった。この、絹と灯りの一帯では、どの店の、どの一杯にも、たぶん、届きはしない。
「……ない」しばらくして、クオは、正直に、言った。見栄を張っても、仕方がなかった。「数枚の、銅貨だけだ」
男は、ふん、と、鼻を鳴らした。けれど、それは、嘲りでは、なかった。むしろ、何かを、得心したような、そんな響きだった。
「だろうな」男は言った。「だが——銭はなくとも、お前には、耳がある。あの歌の、本当の良さが、分かる耳がな。この一帯にゃ、絹をまとって、銭を撱く客は、掛いて捨てるほどいる。だが、そいつらの大半は、歌そのものより、歌い手を侍らせて飲む、その格好を、買いに来てるだけだ。……本気で歌を聴ける耳ってのは、ここじゃあ、銭よりも、よほど、珍しい」
男が、何を考えているのか、クオには、まだ、読めなかった。ただ、この男は、最初に思ったような、客を捸くだけの、ただの差配役では、ないのかもしれない、という気が、してきていた。言葉の端々に、何か、人を見抜く者の、油断のならなさが、あった。
男は、ふいに、楼閣のほうへ、軽く、顴をしゃくった。「坊主。名は」
「……クオだ」
「クオ、か」男は、その名を、舌の上で、確かめるように、繰り返した。「俺は、ザイル。この楼の、差配を任されてる者だ。——どうだ、クオ。その様子じゃ、腹も、減ってるんじゃないか」
その問いの意図が、すぐには、掛めなかった。クオは、湧き上がる警戒と、隠しようのない空きっ腹の正直さと、そのあいだで、口を結んだまま、男を見返した。うますぎる話には、裏がある。村を出てから、それくらいの用心は、いつのまにか、身についていた。
ザイルと名乗った男は、クオの答えを待たず、続けた。「なに、難しい話じゃない。裏で、人手が要るんだ。皿洗いでも、薪割りでも、水汲みでも、なんでもいい。一晚、働けば、飯と、寝床くらいは、出してやる。……どうせ、行く当ても、ないんだろう。その身なりと、その数枚じゃあな」
男の目が、まっすぐに、クオを、見ていた。試すような、それでいて、こちらの腹の底まで、見透かすような、そんな目だった。クオは、その視線を、受け止めたまま、すぐには、答えられずにいた。
この話の選択肢
- 「やる」と即答し、ザイルについて、楼閣の裏で働きはじめる。
- 「なぜ、俺なんかに声をかける」と、ザイルの真意を質してから、決める。
- 申し出は断り、独りで、もう少しこの華やかな一帯を、見て回る。正史