NoveLoreノベロア・物語の冒険者ギルド
アルゲンティア戦記all

アルゲンティア戦記華の巷

前の話で選んだ選択肢広場の向こう、ひときわ明るい一帯へ──この町のいちばん華やかな場所を、自分の目で見に行く。

クオは、篝火の広場を抜けて、その明るい一帯へと、足を向けた。

近づくにつれて、空気が、変わっていくのが分かった。大通りの、汗と土と煮炊きの匂いが、ふいに退いて、代わりに、甘く、重い香りが、漂いはじめた。花の香にも、香油の匂いにも似た、嗅いだことのない香り。それが、灯りとともに、夜気に、溶けていた。

通りは、石畳まで違った。よく磨かれ、灯りを照り返して、濡れたように光っている。両側に並ぶのは、屋台でも、商家でもなかった。朱や金で飾られた、高い楼閣。軒からは、色とりどりの紗が垂れ、夜風にゆれるたび、奥の灯りが、ちらちらと透けた。窓という窓に明かりが灯り、そのどれもが、村のそれより、ずっと濃く、ずっと艳やかだった。

行き交う人々も、別の世界の住人のようだった。絹をまとった男たち。香を焚きしめ、髪を結い上げた女たち。誰もが、上等な衣をまとい、ゆったりと歩き、笑い、連れ立って、楼閣の奥へと消えていく。先ほどの大通りの、生きるための雑踏とは、まるで違う。ここに流れているのは、余った時間と、余った銭の、匂いだった。

クオは、立ち止まった。

一歩、踏み込むのが、躊躇われた。自分の、土と埃にまみれた身なりが、この磨かれた石畳の上では、あまりにも、場違いだった。すれ違う者たちは、クオを見ない。いや、正しくは、見て、そして、見なかったことにした。物乞いか、迷い込んだ子か——その程度の一瞥で、すぐに視線を逸らし、関わりを避けて、通り過ぎていく。大通りの無関心とは、また違う。ここでは、クオは、いてはいけない者だった。誰かに哎められる前に、立ち去るべきだ——頭では、そう、分かっていた。

それでも、足は、引き返さなかった。

怖いもの見たさ、というのとも、少し違った。クオは、ただ、知りたかった。この世界の、いちばん高いところで、人がどう生き、何を笑い、何に銭を払うのか。村の隅で、空気のように生きてきた自分が、いまだ知らずにいる、世界の上澄みを、この目で、見ておきたかった。

そのときだった。

歌が、聞こえた。

一際大きな楼閣の、二階の、開け放たれた高欄から、それは流れてきた。女の声だった。澄んで、伸びやかで、それでいて、どこか、胸を締めつけるような。クオは、村の祭りの、調子外れの笛と太鼓しか、知らなかった。町の大通りで聞いた、酔った男たちの、がなり声しか。けれど、これは——違った。

足が、勝手に、そちらへ向かっていた。

楼閣の前の、小さな広がりに、人が、足を止めていた。通りすがりの者たちが、しばし、歩みを止め、その歌に、聴き入っている。クオも、その人垣のいちばん後ろに、紛れ込んだ。

高欄の上に、女が、立っていた。

灯りに照らされたその姿を、クオは、息を詰めて、見上げた。長い衣が、夜風に、ゆるやかに揺れている。結い上げた髪に、銀の飾りが、光を弾く。顔立ちまでは、遠くて、よく見えない。けれど、その声は、まっすぐに、夜を渡って、クオの胸の、いちばん深いところへ、届いた。これほど美しいものが、この世にはあるのか——クオは、そんなことすら、思った。

何を歌っているのか、言葉は、半分も、聞き取れなかった。古い言葉のようだった。けれど、その旋律には、たしかに、何かが、込められていた。喜びではない。もっと、静かな——失ったものを悼むような、遠いものを呼ぶような、そういう響き。聞いているうちに、クオの胸の奥で、名前のつかない何かが、疼いた。失ったという自覚すら、ないまま。自分がとうに、失っていた何か。それが、歌に呼ばれて、かすかに、身じろぎした気がした。

クオは、いつのまにか、自分の境遇も、空きっ腹も、場違いな身なりのことも、忘れていた。ただ、その声に、聴き入っていた。

歌が、終わった。

最後の一音が、夜気に溶けて、消える。しばしの、静寂。それから、人垣のあちこちから、ため息と、まばらな喝采が、起こった。聴いていた者たちは、満たされた顔で、また、めいめいの夜へと、散っていく。

けれど、クオは、動けなかった。その場に立ち尽くしたまま、まだ、高欄の上の、女を、見上げていた。

そして——女の視線が、ふと、降りてきた。

散っていく人垣の、その向こう。ただ一人、立ち去らずに残った、ぼろをまとった少年に。一瞬、クオは、二つの目と、たしかに、目が合った気がした。遠くて、表情までは、読めない。けれど、女は、すぐには、視線を逸らさなかった。場違いな少年を、しばらく、見下ろしていた。

そのまま、ほんの少しだけ、女が、何かを——微笑んだのか、それとも、ただ夜風に目を細めただけなのか、クオには、分からなかった。

女が、身を翻す。長い衣の裾が、灯りの中で、ひるがえった。そして、高欄の奥の、紗の向こうへと、消えていった。

後に残されたのは、まだ、耳の奥に残る、歌の余韻だけだった。

クオは、ようやく、詰めていた息を、吐いた。胸の奥が、妙に、ざわついていた。あの歌が、自分の中の、どこを、揺らしたのか。うまく、言葉にできなかった。ただ、確かなのは——この、絹と灯りと香りの世界は、自分が立っている場所から、あまりにも遠い、ということだった。あの高欄の上と、この石畳の隅とでは、同じ夜の下にいながら、隔たっている距離が、村と町ほども、いや、それ以上に、遠かった。

それでも、その遠さは、不思議と、絶望には、ならなかった。

村にいた頃なら、あの高みを見上げて、ただ、打ちのめされただけだったろう。けれど、今は、違った。誰も自分を知らないこの町で、クオは、何者でもない代わりに、何者にだって、なりうるのかもしれない。その思いは、まだ、根を持たない、ひどく頼りないものだった。けれど、たしかに、胸の底で、小さく、灯っていた。あの歌が、灯したのかもしれなかった。

ふと、人の気配がして、クオは、我に返った。

すぐ傍らに、いつのまにか、一人の男が、立っていた。歳の頃は、三十がらみ。地味だが、仕立てのよい衣を着て、楼閣の使用人か、それとも差配役か、という風情だった。男は、クオを、値踏みするように、上から下まで看めると、低い声で、言った。

「坊主。あの歌が、気に入ったか」

この話の選択肢

  1. 男に「あの歌い手は、誰だ」と尋ねる。正史
  2. 何も答えず、警戒して、その場を、立ち去る。
  3. 男に、この一帯で自分にもできる働き口はないか、尋ねてみる。