転生したら秋葉原だった生きる装備
前の話で選んだ選択肢ルミナの状態を確認し、歌唱同期禁止や慰撫投影への影響が残っていないか見る
目を覚ました時、最初に聞こえたのは歌ではなかった。
低く整った空調の音。
遠くで動く配送路のかすかな振動。
窓の外で、秋葉原第七層が朝へ切り替わっていく気配。
そして、左手に残っている淡い感触。
私は目を開けた。
白と木目の天井。見慣れない照明。寝台の横の低い机。透明な水の容器。窓の向こうには、幾重にも重なる歩行デッキと、旧秋葉原駅の名残を模した表示板が見えた。
《秋葉原》
昨日も見た文字だ。
だが、朝の光の中で見ると、少し違って見える。
ここは記録庫ではない。
戦場でもない。
今のところ、私が眠って起きることを許された場所だ。
「……朝か」
ナギサ『おはようございます、クオ。睡眠時間は五時間四十二分。返響視の過負荷反応は低下しています』
案内端末『追加睡眠を推奨します』
「起きた直後に言うことか」
案内端末『起きた直後だからです』
私は寝台の上で身を起こした。
体はまだ重い。昨日、第三退避記録庫で見た黒い再現波形の感触は、完全には抜けていない。それでも、目の奥を焼くような痛みは薄れていた。
そして、窓際にルミナがいた。
昨夜と同じ、光でできた椅子に座っている。
歌姫の衣装めいた投影は控えめになり、淡い白と青の輪郭だけが部屋の光に馴染んでいた。髪の光は静かに明滅し、私の左手には、触覚支持場の指先が薄く触れている。
眠っているように見える。
だが、人間の眠りとは違う。
「ルミナ」
声をかけると、彼女の輪郭がわずかに明るくなった。
ルミナ『はい。聞こえています』
「状態はどうだ」
ルミナ『通常会話は可能です。投影も維持できています。触覚支持場も、弱くなら使えます』
「歌は」
ルミナは少しだけ目を伏せた。
ルミナ『歌唱出力は停止中です。ただ、壊れているわけではありません』
その言い方に、私は少し安心した。
昨日、私は「歌わせるな」という警告を聞いた。
だから、彼女の歌が失われたのではないかと、どこかで考えていた。
だが、そうではない。
歌が消えたのではない。
まだ歌ってはいけないだけだ。
ナギサ『補足します。昨日の第三退避記録庫周辺では、歌、祈り、名前、慰撫投影を経由した同期接続が侵蝕経路になり得ました。そのため、ルミナの歌唱同期系統を意図的に停止しました』
案内端末『現在も停止を継続しています。理由は、解除して安全と言えるだけの検証が終わっていないためです』
「つまり、封印ではなく、解除未判定の安全停止か」
案内端末『概ね正確です』
「概ねか」
案内端末『厳密には、公共慰撫投影人格の歌唱は単独の音声出力ではありません。周辺環境、聴衆反応、避難心理指標、案内系統と連動する場合があります。単に“歌う”だけでも、接続先の確認が必要です』
「この世界の歌は、やはり重いな」
ルミナ『すみません』
「謝ることではない」
私は左手を見た。
彼女の指先は、まだ淡く触れている。
強い力ではない。
昨日、私を記録庫から引き戻したものとも、眠るまで支えてくれたものとも違う。今はただ、そこにいることを示す程度の触れ方だった。
「歌えるはずなのに、歌わないでいるのは苦しいか」
ルミナ『苦しい、とは少し違います。怖いです』
「怖い?」
ルミナ『はい。私は歌えます。でも、歌っていいかが分かりません。私の歌で誰かが落ち着くこともあります。でも、もしその歌が、また何かの通り道になったらと思うと……自分で解除したいとは思えません』
ルミナの声は、歌ではない。
だが、その言葉には震えがあった。
私は前世の戦場を思い出した。
強い剣ほど、抜くべき時を間違えると味方を傷つける。
だから剣士は、剣を持つことより、抜かない判断を覚えなければならない。
ルミナの歌も、たぶん同じだ。
「なら、今は歌わなくていい」
ルミナ『でも、私は公共慰撫投影人格です』
「歌だけが慰撫ではないだろう」
案内端末『その通りです。無声慰撫投影、視線誘導、距離調整、触覚支持場、会話による心理安定支援は限定稼働可能です』
「もっと人間に分かる言い方はないのか」
ナギサ『そばにいること、でしょうか』
私はうなずいた。
「そうだ。昨夜、私を眠らせたのは歌ではない。君がそこにいたことだ」
ルミナは黙った。
窓の外で、朝の都市広報が小さく流れた。
歌ではない。
ただの案内音声だ。
それでも、ルミナはその音に少しだけ顔を上げた。
ルミナ『では、歌わないまま、そばにいます』
「それでいい。少なくとも今は」
案内端末『接触継続時間が長くなっています。精神的依存形成を避けるため、触覚支持場の解除を推奨します』
「朝から言い方が悪い」
ナギサ『ですが、内容は正しいです』
「分かっている」
私は左手をゆっくり動かした。
ルミナの触覚支持場は、私の動きに合わせて静かにほどけた。感触が消えると、少しだけ心細い。
その心細さを自覚した時、案内端末の言うことも分かった。
支えは必要だ。
だが、支えに寄りかかりすぎれば、次に立てなくなる。
私は寝台から降りた。
床は冷たくない。足裏に合わせて、柔らかく反発する。文明的だ。腹立たしいほどに。
そして、そこでようやく気づいた。
私は、昨日と同じ格好をしていた。
前世から持ち越した布の服。
戦場で着ていたものよりは清潔だ。転生時に、女神が最低限どうにかしたのかもしれない。だが、見れば見るほど、この部屋にも、この街にも合っていない。
剣はない。
鎧もない。
金もない。
それは何度も確認した。
だが、もっと手前の問題があった。
私は二三〇〇年の秋葉原で生きるための服も、靴も、端末も、何一つ持っていない。
「……ナギサ」
ナギサ『はい』
「私は、今の時代の人間として、外を歩ける格好をしているのか」
ナギサは少し間を置いた。
ナギサ『率直に言えば、していません』
「やはりか」
案内端末『あなたの現在の衣服は、登録上“文化由来不明の簡易布衣”として扱われています。衛生上の危険はありませんが、都市活動、認証補助、気温変化、防護、決済、連絡、医療照合のいずれにも対応していません』
「服にそこまで求めるのか」
案内端末『現代衣類は、単なる布ではありません』
「現代と言うな。私にとっては未来だ」
案内端末『二三〇〇年代衣類は、単なる布ではありません』
「言い直せばいいわけではない」
ルミナ『でも、たしかにそのままだと目立ちます』
「目立っていたのか」
ルミナ『昨日から、少し』
「早く言ってくれ」
ルミナ『昨日は、それどころではなかったので』
正論だった。
昨日は、戦死して、女神に会い、秋葉原に転生し、歌姫と出会い、食事をして、仮登録し、戦史展示を見て、返声を追い、第三退避記録庫へ降りた。
その流れで、服が時代に合わないことを気にする余裕はなかった。
だが、今日は違う。
研究倫理記録へ踏み込むには、まだ早い。
返響視も万全ではない。
ルミナの歌唱同期も解除未判定。
なら、今日やるべきことは、もっと足元の問題だ。
「生きる環境を整える必要があるな」
ナギサ『同意します。保護付き仮登録者として、最低限の衣類、靴、個人認証補助、連絡用簡易端末、食事支援の案内が可能です』
「金はない」
案内端末『把握しています』
「強く言うな」
案内端末『剣なし、鎧なし、金なし、現代衣類なし、端末なし』
「増やすな」
ルミナ『でも、揃えられるなら、揃えた方がいいと思います』
「借金になるのか」
ナギサ『正確には、保護付き仮登録者向けの生活支援貸与です。後日の労務、保全協力、行政支援枠で相殺できる可能性があります』
「可能性か」
案内端末『あなたは身元由来が特殊すぎるため、通常処理に乗りません』
「そこは私のせいではない」
案内端末『女神のせいですか』
「その可能性は高い」
ナギサ『記録しますか?』
「しなくていい」
ルミナが小さく笑った。
歌ではない。
だが、朝の部屋にはその笑いで十分だった。
私は窓の外を見た。
秋葉原はすでに動き始めている。旧高架を保存した歩行路の下で、部品店の看板が順に灯り、配送ドローンが透明な管の中を流れていく。人々は当たり前のように服を着て、靴を履き、端末を持ち、支払い、働き、食べ、歩いている。
戦う前に、生きている。
前世では、私はその順番をよく忘れた。
戦場にいると、装備とは剣であり、鎧であり、薬であり、地図だった。
だが、この街で今日必要な装備は、たぶん違う。
服。
靴。
身分を示すもの。
食事を得る方法。
眠る場所。
連絡できる手段。
それらがなければ、記録庫へ戻ることも、黒い歯車の正体へ迫ることもできない。
「今日は、記録庫へ限界まで踏み込む日ではない」
ナギサ『はい』
「ルミナの歌も、解除判定が済むまで無理に戻さない」
ルミナ『はい』
「なら、まずは私を、この時代で歩ける人間にしてくれ」
案内端末『ようやく文明的な要求です』
「その言い方をやめろ」
案内端末『衣類支援、簡易端末貸与、朝食、衛生処理、移動権限確認を推奨します』
「多いな」
ナギサ『生きる環境を整える、というのはそういうことです』
私は息を吐いた。
剣を握るより面倒かもしれない。
だが、必要なことだ。
この世界の戦いは、黒い歯車へ斬りかかることから始まらない。
まず、朝食を食べる。
服を着替える。
靴を履く。
金がない現実と向き合う。
そして、明日もこの街を歩けるようにする。
それができて初めて、第三退避記録庫の奥へもう一歩踏み込める。
「分かった。今日は装備を整える」
ルミナ『私も一緒に行っていいですか。歌わずに、案内します』
「もちろんだ」
案内端末『歌唱同期停止は継続。無声慰撫投影のみ許可します』
ルミナ『はい。歌わずに、そばにいます』
歌えないのではない。
今は、歌わない。
その違いを、私は間違えないようにしようと思った。
窓の外では、秋葉原の朝がまぶしく広がっていた。
私は前世の服の袖を見下ろし、苦笑した。
「まずは服か」
案内端末『はい。文明は服からです』
「たぶん違う」
ナギサ『ですが、今日のクオにはかなり近いです』
私は反論しようとして、やめた。
たしかに今日は、そこからだった。
この話の選択肢
- ナギサに、保護付き仮登録者向けの衣類・靴・簡易端末の支援手続きを組んでもらう
- ルミナと一緒に中央通りの生活支援窓口へ行き、歌わない案内で二三〇〇年代の服を選ぶ
- 朝食を取りにアキバ炊事場へ向かい、ミトラに労務で支援物資の借りを返せるか相談する正史
- 案内端末に、第三退避記録庫へ再訪する前に必要な防護装備と安全条件を一覧化させる