転生したら秋葉原だった今日はここまで
前の話で選んだ選択肢第三退避記録庫の研究倫理記録を開き、当時の実験継続判断を見る
研究倫理記録を開く。
そう決めたはずなのに、私は扉の前で止まっていた。
第三退避記録庫の奥には、まだ白い光が残っている。旧線路下保存層の床下を、細い道標のように走る光。戻るな、と告げるために残された保全記録。
その周囲にまとわりついていた黒い再現波形の感触は、掌から手を離した後も、まだ消えていなかった。
私は右手を開いた。
傷はない。
だが、傷がないことと、無事であることは違う。
案内端末『研究倫理記録の開示準備は可能です。ただし、現時点での閲覧は推奨しません』
「さっきまで追加制限があると言っていたな」
案内端末『はい。制限があります。そして、制限以前の問題として、あなたは現在、転生初日です』
私は黙った。
言われてみれば、そうだった。
魔王軍との戦いで死に、女神に会い、別世界へ送られた。剣も鎧も金もないまま、西暦二三〇〇年の秋葉原に立った。機械生命体に侵略された地球の話を聞き、日本がまだ防衛圏を保っていることを知り、幻影の歌姫と出会い、返声を追って、第三退避記録庫まで降りてきた。
これで、まだ一日目。
「……濃すぎるな」
ナギサ『はい。かなり濃いです』
ルミナ『私も、そう思います』
案内端末『一般的な転生初日の統計はありませんが、異常値と判断できます』
「統計がなくても分かるのか」
案内端末『分かります。少なくとも、初日に研究倫理記録まで読む必要はありません』
正論だった。
だから、少し腹が立った。
いや、腹が立つというより、認めたくなかった。
前世の私は、止まることを嫌っていた。戦場では、判断の遅れが死に直結する。危険なものがあるなら見る。声がするなら確かめる。敵か味方か分からないなら、一歩踏み込んで見極める。
それで生き残った。
それで死んだ。
どちらも事実だ。
「研究倫理記録を開けば、この実験をした人間たちの判断が分かるかもしれない」
ナギサ『はい』
「なぜ継続したのか。どこで止めるつもりだったのか。どこで間違えたのか」
ナギサ『分かる可能性があります』
「なら、見る価値はある」
ナギサ『あります』
ナギサは否定しなかった。
ただ、そこで言葉を切った。
その沈黙が、かえって答えだった。
「だが、今見るべきではない」
ナギサ『はい』
短い返答だった。
私は息を吐いた。
「そう言ってほしかったのかもしれないな」
案内端末『あなたは、自分で止まるのが苦手です』
「失礼な端末だ」
案内端末『観察結果です』
「もっと失礼だ」
ルミナ『でも、少し分かります』
ルミナの声は小さかった。
歌唱機能を止められたままの彼女は、薄い輪郭で私の左側に立っている。触覚支持場の手は、まだ私の手に添えられていた。
ルミナ『クオさんは、怖いものを見た時に、逃げるより先に確かめようとします』
「それは悪いことではない」
ルミナ『はい。でも、ずっと続けていたら、たぶん壊れます』
その言葉は、刃ではなかった。
だから余計に刺さった。
私は反論を考えた。
出てこなかった。
前世でも、そういう者を何人も見た。
勇敢で、誠実で、誰よりも前に出る者。危険を知るために危険へ近づき、仲間を守るために傷を引き受け、最後には、自分が傷ついていることさえ分からなくなる。
私は、そういう者を尊敬していた。
そして、何人も埋めた。
もしかすると、私は自分をそこへ並べようとしていたのかもしれない。
転生初日から。
「今日は一旦ここまでにしよう」
声に出すと、思ったより重かった。
逃げる、と言うより難しい。
退く、と言うより恥ずかしい。
だが、言葉にしてしまえば、体は少しだけ楽になった。
「頭を整理するためにも休息に入る。さすがに、これ以上、初日に踏み込むのは重すぎる」
ナギサ『判断を支持します』
案内端末『強く支持します』
ルミナ『私も、そうした方がいいと思います』
「三対一か」
案内端末『一ではありません。あなた自身も、今そう判断しました』
「なら四対零だな」
案内端末『ようやく文明的です』
「文明は、たまに腹立たしいな」
案内端末は答えなかった。
代わりに、研究倫理記録への開示待機表示が消えた。
封印されたのではない。
隠されたのでもない。
ただ、次に読むべき時まで、そこに置き直された。
私は、第三退避記録庫の奥へ向かって軽く頭を下げた。
誰に対してかは分からない。
ここで傷ついた者たちに対してか。
危険な実験を止めようとした者たちに対してか。
それとも、今は読まないと決めた自分へのけじめか。
分からないまま、頭を下げた。
「また来る。だが、今ではない」
白い光が一度だけ瞬いた。
歓迎ではない。
引き止めでもない。
ただ、戻るなと告げるための道標が、まだ消えていないだけだった。
第三退避記録庫を出ると、空気が変わった。
そこはまだ旧線路下保存層だったが、廃墟ではなかった。古い駅の構造をそのまま残した博物館のような場所だ。壁面には、かつての案内板や駅名標が投影され、床には保存用の透明材に覆われたレールが走っている。
古いものは古いまま、しかし清潔に整えられている。
壊れて放置された場所ではない。
守られて、管理されて、未来の都市の一部として残された過去だった。
《秋葉原》
淡く浮かぶ駅名標を見て、胸の奥が少しだけざわついた。
知っているはずのない地名。
だが、この世界で最初に立った場所。
今のところ、私が帰る場所と呼べる唯一の名前。
「地上に戻るのか」
ナギサ『はい。第七層の短期滞在区画へ案内します。保全協力者用の休息室を確保済みです』
「保全協力者」
案内端末『緊急保全補助よりは穏当な呼称です』
「私はいつの間に職を得たんだ」
案内端末『剣なし、鎧なし、金なし。役割があるだけ前進です』
「慰め方が下手だな」
ルミナ『でも、住む場所があるのは安心です』
「休息室だ。住居ではないだろう」
案内端末『現時点では、住居に準ずる扱いが可能です』
「ありがたいが、不安も同時に来るな」
ナギサ『秋葉原では、よくあります』
「よくあるのか」
ナギサ『はい』
未来都市とは、そういうものらしい。
昇降床が静かに上昇する。
足元には、保存層のレールが透明な光の線となって流れていく。頭上には、地上階の明かりが少しずつ近づいてくる。
暗い地下から出る、というより、静かな展示室から明るい都市へ戻る感覚だった。
扉が開いた瞬間、音と光が戻ってきた。
秋葉原は、生きていた。
通路の左右には、立体看板が浮かび、電子部品店らしい小さな店から、修理用ドローンが出入りしている。透明な配送管の中を小さな荷物が滑り、頭上の歩行デッキでは人々が普通に行き交っていた。
笑い声がある。
店員の呼び込みがある。
自動翻訳された案内音声が、いくつもの言語で重なっている。
遠くの高層外壁には、防衛圏の状況を示す青い帯が流れていた。そこに緊張はある。世界が平穏ではないことも分かる。
だが、ここは瓦礫の街ではない。
侵略された都市ではない。
まだ守られている都市だった。
「……明るいな」
案内端末『はい。秋葉原は防衛されています』
「さっきも聞いた」
案内端末『重要事項です』
私は通路の向こうを見た。
店の前では、掌ほどの修理機械を並べている老人がいた。隣では、子供が小さな投影玩具を選んでいる。さらに向こうでは、警備用の白い機体が静かに巡回していた。
戦時下なのだろう。
けれど、戦場ではない。
この違いは大きい。
「前世の城下町を思い出す」
ルミナ『似ていますか?』
「似ていない。だが、守られている町の匂いは少し似ている」
案内端末『匂い情報としては、現在、合成珈琲、樹脂加熱、清掃用オゾン、焼成小麦の成分が検出されています』
「そういう意味ではない」
ナギサ『比喩です』
案内端末『理解しました。比喩として記録します』
ルミナが小さく笑った。
それだけで、胸の奥に残っていた記録庫の冷たさが、少し溶けた。
短期滞在区画は、電気街の上層にあった。
店の看板が密集する低層とは違い、上へ行くほど空間が広くなる。透明な床材の下を配送レーンが走り、壁面には植物が植え込まれている。人工の風があり、空調の匂いはするが、閉塞感はない。
窓の外には、秋葉原の光が広がっていた。
幾重にも重なる歩行デッキ。
空中を走る小型輸送機。
古い街並みを模した低層看板。
その上に重なる、二三〇〇年の高層都市。
歴史を潰して建て替えたのではない。
歴史を積み上げた街だった。
「すごいな」
素直に、そう言っていた。
ナギサ『秋葉原第七層、中央保全区画です。観光案内ではなく、生活区画と研究区画を兼ねています』
「これで生活区画なのか」
案内端末『はい。なお、あなたの現在の生活水準は最低限です』
「台無しだ」
ルミナ『でも、寝る場所はあります』
「そうだな。今はそれで十分だ」
休息室は、明るく清潔だった。
白と木目を合わせた壁。広すぎない部屋。低い寝台。窓際には、小さな机と椅子。机の上には透明な水の入った容器が置かれている。
見慣れないものばかりだが、怖さはなかった。
前に案内端末が示した医療装置のような寝台ではない。少なくとも、棺には見えない。
「普通だな」
案内端末『普通に見えるよう設計されています』
「ありがたい」
案内端末『休息の妨げになる形状は避けています』
「文明的だ」
案内端末『ようやく理解されました』
「調子に乗るな」
ナギサはどこかの扉をくぐる存在ではない。私の視界の端にある補助表示と、耳元の声としてついてくる。案内端末も、部屋に入ると壁面の小さな案内アイコンへ移った。
ルミナだけが、入口で足を止めた。
正確には、足音はない。彼女は投影だ。だが、薄い光の輪郭が、扉の手前で遠慮するように止まった。
ルミナ『私も、入っていいんでしょうか』
「なぜ聞く」
ルミナ『休む部屋なので。クオさんの部屋、ですよね』
私は少し考えた。
言われてみれば、そうだった。
前世なら、男女が同じ部屋で夜を過ごすとなれば、それなりに意味を持つ。宿屋なら部屋を分ける。戦場なら雑魚寝もある。状況によるが、何も考えずに流してよいことではない。
だが、今のルミナは幻影の歌姫だ。
触れられる。
手を握れる。
けれど、人間と同じ体を持っているわけではない。
だからといって、物のように扱ってよいわけでもない。
「君が嫌でないなら、いてくれ」
ルミナ『私が、ですか』
「ああ。今日は、君にも怖いものを見せた。ここで急に消えられると、私も落ち着かない」
ルミナの輪郭が、少しだけ明るくなった。
ルミナ『では、います。歌わないで、静かにしています』
案内端末『休息室内の慰撫投影滞在を許可。歌唱出力は停止継続。触覚支持場は最低限に制限します』
「制限するのか」
案内端末『睡眠中に強い触覚刺激を維持すると、あなたの返響視が夢と誤認する可能性があります』
「夢にまで記録庫を持ち込むのは嫌だな」
ナギサ『同意します』
部屋の壁際に、淡い光の椅子がせり出した。
椅子と呼ぶには頼りない。月明かりを薄く固めたような形だった。ルミナがそこへ腰を下ろすと、彼女の輪郭が部屋の設備と静かにつながった。
消えたわけではない。
むしろ、そこにいることが、さっきより分かりやすくなった。
髪の光がゆっくり落ち着き、歌姫の衣装めいた投影が、柔らかな室内着のような輪郭へ変わる。派手な光が消え、淡い白と青だけが残った。
ルミナ『低負荷待機、という状態になるみたいです』
「眠るのか」
ルミナ『人間の眠りとは違うと思います。でも、外の音を遠くして、考える速度を落として、必要な時だけ反応するそうです』
案内端末『概ね睡眠に近い待機状態です』
「なら、寝るでいいだろう」
案内端末『厳密性に欠けます』
「今は厳密でなくていい」
私は寝台に腰を下ろした。
体が急に重くなる。
第三退避記録庫では、気を張っていたのだろう。返声が敵ではないと整理した。白い保全記録と黒い再現波形を見た。研究倫理記録へ踏み込もうとして、踏みとどまった。
体も心も、とっくに限界に近かった。
「ナギサ。今日分かったことを短く整理してくれ」
ナギサ『はい。第一に、秋葉原は敵の直接侵攻を受けていません。現在も日本防衛圏内です』
「ああ」
ナギサ『第二に、第三退避記録庫にあった黒い反応は、機械生命体そのものではなく、敵性波形を高精度に模倣した実験再現ログ、またはその残響です』
「危険だが、敵ではない」
ナギサ『はい。第三に、返声はあなたの仮登録名と前世記憶に反応しました。これは侵入ではなく、再現ログとあなたの記憶の類似による連鎖反応と推定されます』
「私の中に、似た傷がある」
ナギサ『はい』
私は目を閉じた。
黒い歯車。
魔王軍。
死体の胸。
祈りを腐らせたような命令。
そして、秋葉原の白い避難案内。
同じではない。
同じではないが、無関係でもない。
その違いを見誤れば、私はまた敵を間違える。
「第四は」
ナギサ『第四に、研究倫理記録は重要ですが、今すぐ開示すべきではありません。あなたの返響視と前世記憶は過負荷状態です』
案内端末『補足。寝てください』
「急に雑だな」
案内端末『必要事項を最短で提示しました』
ルミナ『私も、寝た方がいいと思います』
「君は、そこにいるのか」
ルミナ『はい。ここにいます』
ルミナは椅子に座ったまま、右手を伸ばした。
寝台までは少し距離があるはずなのに、光の指先だけが細く伸びて、私の左手に触れた。
強い感触ではない。
布越しに水面へ触れたような、淡い圧だけだった。
ルミナ『眠るまで、手だけ置いておきます。嫌なら、すぐ離します』
「嫌ではない」
私は短く答えた。
それ以上言うと、妙に照れくさくなりそうだった。
案内端末『触覚支持場、睡眠導入範囲内。問題ありません』
「いちいち判定するな」
案内端末『安全管理です』
ナギサ『クオ、休んでください。以後、緊急度の低い通知は朝まで抑制します』
「朝があるのか」
ナギサ『あります。秋葉原には昼夜サイクルがあります』
「そうか」
それだけのことが、少し嬉しかった。
この世界にも朝がある。
遠い大陸が失われても、機械生命体が地球を侵略していても、秋葉原には夜があり、朝がある。
窓の外では、明るい未来都市の光がまだ動いていた。店は開き、人は歩き、機械は巡回し、都市は呼吸している。
ここは瓦礫の街ではない。
まだ守られている街だ。
だからこそ、守るために何をしたのかを、いつか読まなければならない。
だが、今夜ではない。
「今日は一旦ここまでだ」
誰に言うでもなく、私はつぶやいた。
ナギサ『はい。今日はここまでです』
案内端末『記録しました』
ルミナ『おやすみなさい、クオさん』
「ああ。おやすみ、ルミナ」
ルミナの輪郭が少しだけ薄くなった。
消えたのではない。
眠るように、光が静かになったのだ。
窓際の椅子に座ったまま、彼女は目を閉じている。髪の光が、呼吸の代わりのようにゆっくり明滅していた。私の左手には、まだ彼女の指先の淡い感触が残っている。
この世界に来て、初めて眠る。
剣はない。
鎧もない。
金もない。
分からないことばかりだ。
それでも、今夜だけは一つ分かった。
踏み込むことだけが、勇気ではない。
まだ守られている街で、明日も考えるために休むこと。
それも、たぶん戦いの一部なのだ。
私は目を閉じた。
秋葉原の明るい光と、ルミナの淡い指先の感触が、まぶたの裏で静かに滲んでいた。
この話の選択肢
- ナギサに、今日判明した「返声」と「高再現ログ」の違いを改めて整理してもらう
- ルミナの状態を確認し、歌唱同期禁止や慰撫投影への影響が残っていないか見る正史
- 案内端末に、明日以降の探索順序を安全優先で組ませる
- 窓の外の秋葉原を眺めながら、前世の黒い歯車の記憶との違いだけを静かに整理する