転生したら秋葉原だった名前より先に
前の話で選んだ選択肢認証を失った人々の記録を、さらに詳しく見るか迷う
床の白線を見つめたまま、私はしばらく動けなかった。
声を失っても、人を見失わないための道。
案内端末がそう説明した意味は、もう理解できる。
理解できてしまったからこそ、頭の奥に残り続けるものがあった。
空気のない場所。
開かない扉。
助けを求める声。
そして、その声を発した者を、仕組みの側が人間として数えない。
「案内端末」
案内端末『はい。歩行者支援案内端末、応答可能です』
「さっき、多数の救助失敗が記録されていると言ったな」
案内端末『はい』
「その記録は、ここで見られるのか」
案内端末の投影灯が、わずかに暗くなった。
故障ではない。
これまでにも何度か見た。
すぐに答えず、こちらの状態を確認している時の光だ。
案内端末『閲覧可能な記録があります』
「あるのか」
案内端末『ただし、公開範囲を制限した教育用記録です。個人名、家族情報、私的通信、身体情報の一部は非開示処理されています』
「死んだ者の記録だからか」
案内端末『死者であるかどうかにかかわらず、人格情報は保護対象です』
当然のように返された。
私は少しだけ視線を落とした。
当然なのだろう。
この世界では、人の名前も記憶も、敵に利用された。
だからといって、守らなくてよいものになったわけではない。
むしろ、奪われたからこそ、残った側が守ろうとしている。
「見せてくれ」
そう言いかけた。
だが、言葉は喉の途中で止まった。
案内端末は急かさなかった。
ルミナも、何も言わなかった。
部屋の中では、床下の低い振動だけが続いていた。
「いや」
私は首を振った。
「少し待ってくれ」
案内端末『待機します』
白い表示が静止した。
私は自分の右手を見た。
剣を握っていた手だ。
前世では、死体を見ることを避けてはいられなかった。
倒れた兵の顔を確かめた。
名を知っている者なら、覚えた。
知らない者でも、所属を調べた。
誰が生き、誰が死んだかを数えることは、隊を率いる者の仕事だった。
だが、今から見ようとしているものは違う。
私はその場にいなかった。
助けることもできなかった。
記録の中で苦しんだ者たちを知りたいと思っているのは、この世界を理解するためだ。
それは正しいのか。
誰かの死を、自分のための教材にすることにならないか。
「……私は、何のために見る」
口から出たのは、案内端末への問いではなかった。
自分への問いだった。
ルミナが、補助投影の端から一歩だけ近づいた。
ルミナ『見なければならない、と決まっているわけではありません』
「だが、知らなければ、また同じことが起きた時に何も分からない」
ルミナ『はい』
「見るだけなら簡単だ。私が傷つくだけで済む」
ルミナ『記録の中にいる方々を、自分が傷つくためのものとして扱いたくないのですね』
私はルミナを見た。
彼女の声は柔らかかった。
慰めるために答えを決める声ではなかった。
「そうだ」
私は正直に言った。
「見て、怒って、悲しんで、それで私は分かったつもりになる。その者たちは、私に分からせるために死んだわけではない」
案内端末『その認識は重要です』
「重要なのか」
案内端末『はい。認証喪失者記録の閲覧規約にも、同様の注意があります』
白い文字が空中に浮かんだ。
認証喪失者記録。
冷たい名前だった。
だが、何が起きた記録なのかは、嫌になるほど正確に伝わってくる。
案内端末『記録は、閲覧者へ苦痛を与えるためのものではありません。また、犠牲者を英雄、教材、統計、警告のいずれか一つだけに固定するものでもありません』
「では、何のために残した」
案内端末『同じ条件で、次の人間を見失わないためです』
私は黙った。
床の白線へ視線が戻った。
次の人間を見失わないため。
それならば、先ほど聞いた言葉と同じだった。
声を失っても、人を見失わない。
認証を失っても、人を見失わない。
「一件だけ見たい」
私は言った。
「多くは見ない」
案内端末『理由を確認してもよいですか』
「数にしたくない」
答えはすぐに出た。
「多数の救助失敗と言われれば、私は多数だと受け取ってしまう。だが、本当は、一人が何度もいたはずだ」
扉の前に立つ一人。
補給口へ腕を伸ばす一人。
助けを呼ぶ一人。
それが、別々の場所で、別々の時に、何度も起きた。
「一人を一人として見る。それ以上は、今の私には抱えきれない」
案内端末『閲覧条件を設定します。一件。教育用編集版。音声再生なし。映像は抽象化表示。いつでも停止可能です』
「頼む」
床の投影が暗くなった。
先ほどまで地球と月が浮かんでいた場所に、灰色の通路が現れる。
黒い空。
低い外壁。
その壁に埋め込まれた、厚い扉。
扉の外に、一人の人影が立っていた。
人影に顔はなかった。
名前も表示されない。
ただ、外縁保守作業員とだけ記されている。
その者の胸元に、小さな白い数字が浮かんでいた。
「この数字は」
案内端末『宇宙服内の生命維持可能時間です』
数字は、ゆっくり減っていた。
十二。
十一。
十分台へ入る。
作業員は扉の横へ手を伸ばす。
認証表示が赤く変わった。
接続資格不一致。
所属記録なし。
外部装備識別不能。
救助要請隔離。
「本人の記録が消されたのか」
案内端末『正確には、正規記録と現場側記録の対応関係が破壊されました』
「本人はいる」
案内端末『はい』
「装備もある」
案内端末『はい』
「基地の外で作業していた記録も、本当はあるのだろう」
案内端末『侵食前の記録には存在しました』
「それでも、その時の扉には分からない」
案内端末『はい』
投影の中で、作業員が再び扉へ手を当てた。
赤い拒否表示。
もう一度。
拒否。
さらにもう一度。
拒否。
焦って叩いているようには見えなかった。
抽象化された映像だからかもしれない。
だが私は、その動きに妙な落ち着きを感じた。
慌てれば空気を多く使う。
声を出しても空気を使う。
だから、落ち着いているのではない。
落ち着くしかなかったのだ。
「中には誰もいなかったのか」
案内端末『いました』
扉の内側に、別の人影が表示された。
その者も顔はない。
内部保守員。
内部保守員は操作盤へ手を伸ばし、何度も表示を切り替えている。
手動確認。
局所照合。
作業記録照合。
外部映像照合。
どれも完了しない。
案内端末『内部保守員は、外部作業員が正規の同僚である可能性が高いと判断しました』
「なら開ければいい」
案内端末『開放操作は試みられました』
「開かなかったのか」
案内端末『基地中枢側が、外部対象を敵性偽装の可能性ありと判定しました』
内部保守員が、壁の一部を開いた。
その中に、赤い取っ手が現れる。
「物理鍵か」
案内端末『緊急手動開放器です』
内部保守員が両手で取っ手を引く。
だが、扉は動かない。
案内端末『気密区画全体の隔離命令が優先されました』
「手動なのに」
案内端末『手動開放器は存在しました。しかし、当時の設計では、基地全体の破壊を防ぐための強制隔離命令が上位に置かれていました』
人を救うための手動開放。
基地を救うための強制隔離。
どちらも、人を守るための仕組みだった。
だからこそ、敵はその間へ入り込んだ。
どちらを選んでも、誰かを見捨てる形にした。
数字が減っていく。
七。
六。
五。
私は手を握りしめた。
「もういい」
声が出た。
案内端末は即座に投影を止めた。
灰色の通路も、扉も、人影も消える。
数字も消えた。
だが、胸の中ではまだ減り続けているように感じた。
案内端末『閲覧を終了しました』
「最後までは見ていない」
案内端末『はい』
「それでも、死んだことは変わらないな」
案内端末『はい』
案内端末は、曖昧な慰めを言わなかった。
私はそれでよかった。
助かったと言われても信じられない。
苦しまなかったと言われても、根拠を求めてしまう。
分からないものを、分かったことにはされたくなかった。
「記録では、あの者は何と呼ばれている」
案内端末『外縁保守作業員一名です』
「名前は」
案内端末『非開示です』
「認証上の番号は」
案内端末『破損しています』
「なら、記録の中でも、誰だか分からないままなのか」
案内端末『閲覧者であるクオには、分かりません』
「そうか」
私は目を閉じた。
前世で、転移門から逃がした百二十七名を思い出した。
全員の顔を覚えているわけではない。
名前も、いくつかはもう曖昧だ。
最後に門をくぐった者が誰だったかさえ、はっきりとは思い出せない。
だが、百二十七という数だけが逃げたのではない。
一人ずつ走った。
一人ずつ息を切らした。
一人ずつ、振り返った。
名簿が燃えたとしても、それは消えない。
「名前が分からなくても、あの者はいた」
案内端末『はい』
「認証が消えても、人間でなくなったわけではない」
案内端末『はい』
「なのに、仕組みは該当者なしと答えた」
案内端末『はい』
「該当者なしではない」
私は床を見た。
そこには何も映っていない。
それでも、先ほどの人影が立っているように思えた。
「一人、いた」
ルミナが、小さく頷いた。
ルミナ『はい。一人、いました』
その言葉で、ようやく数字が止まった気がした。
案内端末が、新しい表示を開いた。
先ほどの記録とは違う。
黒い背景に、白い短い文章だけが並ぶ。
案内端末『この種の救助失敗を受け、未認証者生命保護原則が段階的に整備されました』
「未認証者」
案内端末『本人確認ができない者。記録と照合できない者。認証を失った者。通信断により所属を証明できない者などを含みます』
「その者たちをどうする」
案内端末『敵性が確定していない限り、生命維持を本人確認より優先します』
表示に項目が並んだ。
最低限の酸素供給。
隔離可能な避難場所。
応急医療。
最低限安全な食事。
非接続経路での保護。
確認完了までの仮登録。
「先に助けるのか」
案内端末『はい』
「本人だと分かってからではなく」
案内端末『はい』
「敵かもしれないのに」
案内端末『敵性が確定していない者と、敵性が確定した者は同一ではありません』
私は、思わず案内端末を見た。
あまりにも平らな声だった。
だが、その言葉は強かった。
分からない。
だから殺す。
この世界は、それを選ばないために仕組みを作り直した。
危険を無視するのではない。
隔離する。
監視する。
接続を制限する。
それでも、息を止める前に酸素を渡す。
「確認より先に、生かす」
案内端末『はい』
「人間であることを証明させてから助けるのではない」
案内端末『はい。助けた後に、安全な条件で確認します』
案内端末が、もう一つだけ記録を表示した。
先ほどとは違い、映像ではない。
短い結果記録だった。
認証不能者一名。
外部作業区画より回収。
独立隔離室へ収容。
生命維持供給開始。
本人確認は二時間後に完了。
生存。
「これは」
案内端末『未認証者生命保護原則の整備後に起きた救助例です』
「名前は分からないまま助けたのか」
案内端末『はい』
「敵ではないと確認できる前に」
案内端末『完全な確認より前に、隔離条件下で生命維持を開始しました』
私は最後の文字を見た。
生存。
たった二文字だった。
だが、先ほどのどの文章よりも重かった。
「名を取り戻す前に、息を取り戻したのか」
案内端末『はい』
私は、しばらくその文字を見ていた。
そして、ようやく気づいた。
「私は」
案内端末『はい』
「この街に来た時、何者か分からなかった」
案内端末『はい』
「身分証もなかった。記録にもなかった。所属もなかった」
案内端末『はい』
「それでも、食事を出された」
アキバ炊事場の湯気を思い出した。
ミトラが置いた器。
箸をうまく使えず、何度も麺を落とした。
身元も分からない。
働いた記録もない。
金もない。
それでも、先に食べさせられた。
案内端末『支援食は、未認証者生命保護原則と同じ思想を生活支援側で実装した仕組みの一つです』
「仮登録もか」
案内端末『はい。完全な身元確認を待たず、保護と制限を同時に与える仕組みです』
保護付き仮登録。
私は、その言葉を何度も聞いていた。
守られていることは分かっていた。
だが、なぜ先に守るのかまでは理解していなかった。
この街は、私を信用したわけではない。
危険がないと決めつけたわけでもない。
分からないまま、まず飢えさせなかった。
分からないまま、眠る場所を与えた。
分からないまま、歩ける範囲を作った。
私が誰なのかを確かめる前に、私が生きて確かめられるようにした。
「私は、あの扉の前にいた者と同じだったのかもしれないな」
ルミナ『同じではありません』
ルミナが、静かに言った。
ルミナ『同じではありませんが、同じ失敗を繰り返さないための仕組みに守られました』
「そうか」
私は頷いた。
「同じにしてはいけないな」
あの者の死を、自分の話に奪ってはいけない。
私は助かった。
あの者は助からなかった。
だが、あの者がいたから、次の誰かを助ける仕組みが作られた。
そして、その仕組みの先に、私がいた。
「残りの記録は閉じてくれ」
案内端末『よろしいですか』
「ああ」
「一件を見て、全員を分かったとは言わない。だが、続けて見れば、私はまたあの者たちを多数の救助失敗へ戻してしまう」
私は、床の白線へ足を乗せた。
「今日は、一人いたことを覚える」
案内端末『記録閲覧を終了します』
表示が消えた。
部屋に、静かな明るさが戻った。
白線は、何も語らない。
名前も呼ばない。
本人確認もしない。
ただ、こちらへ続いている。
声がなくても。
名前がなくても。
認証がなくても。
そこに足があるなら、こちらへ来い。
そう示す道に見えた。
私は、自分の古い靴を見た。
外縁作業員用の、旧式の靴。
この街から借りたものだ。
服も借り物。
寝床も支援。
食事も支援。
登録も仮のもの。
私はまだ、この世界で何者でもない。
だが、何者でもないからといって、何もしなくてよいわけではない。
「案内端末」
案内端末『はい』
「私は、ずっと助けられているな」
案内端末『現在までに、複数の生活支援、行政支援、移動支援を受けています』
「正確だな」
案内端末『はい』
「そこは、少しくらい否定してもよかった」
案内端末『事実と異なるため、否定できません』
ルミナが口元をわずかに緩めた。
私は息を吐いた。
重さが消えたわけではない。
だが、重さを抱えたまま、次に何をするべきかは分かる。
「助けられた分を、すぐに返せるとは思っていない」
案内端末『返済義務のない支援も含まれています』
「そういう話ではない」
案内端末『理解しています』
「なら、訂正するな」
案内端末『訂正ではなく補足です』
「似たようなものだ」
私は白線の先を見た。
この街で立場を得る。
剣を持つためだけではない。
自分の力を使うためだけでもない。
誰かを助ける仕組みの中で、任せてもよい者だと認められる必要がある。
床を拭く。
器を分ける。
看板の埃を落とす。
装備を整理する。
道を確かめる。
異常を見つけたら報告する。
小さな仕事を、一つずつ終える。
前世の地位も戦果も、ここでは私の信用にならない。
ならば、この世界で積み直すしかない。
「次の仕事を決めたい」
案内端末『保全協力者候補としての作業実績を継続しますか』
「ああ」
「知らないことを知るだけで終わりたくない。この街で、私に仕事を任せてもよいと思われるだけのものを積む」
ルミナが、白線の向こうを見た。
ルミナ『クオなら、一つずつ積めると思います』
「一つずつか」
ルミナ『はい。一度に全部ではなく』
私は少し考えた。
前世なら、敵陣へ斬り込む方が簡単だったかもしれない。
だが、この世界では、床を拭く方が難しい時がある。
許可を待つ。
自分の役割を守る。
危険を見つけても、勝手に飛び込まない。
知らない仕組みを学び、他人と合わせて動く。
「分かった」
私は頷いた。
「次も、この世界のやり方でやる」
白線の先には、戦場ではなく、いくつもの仕事が待っていた。
この話の選択肢
- 行政支援窓口で、未認証者への初動支援を学ぶ緑枠補助作業を申請する
- 再整備倉庫で旧式装備の整理を手伝い、保全作業の実績を積む正史
- 旧秋葉原駅前広場の非常時退避導線を巡回し、白線と固定表示の点検作業を行う
- 監督者同行を条件に旧部品市外縁の通信タグ点検を申請し、次段階の作業へ挑む