転生したら秋葉原だった上から来た声
前の話で選んだ選択肢年表を見終え、案内端末に宇宙側インフラがどう侵攻経路になったのか尋ねる
年表の光が、壁の奥へ沈んでいった。
最後に残っていた「2300年」の文字も、砂のようにほどけて消える。
部屋は、また静かになった。
正確には、音がなくなったわけではない。
床下のどこかで低い振動が続いている。遠くの空調が、眠っている獣のように小さく唸っている。案内端末の投影灯も、まだ白く点っている。
けれど、さっきまで目の前に並んでいた年月の重さが消えると、そこには声を出すには少し重すぎる沈黙だけが残った。
私は、消えた年表のあたりを見ていた。
人類が空へ声を送り、返ってきた声に傷つき、それでも声を捨てなかった経緯。
言葉としては分かる。
だが、分かったと言うには、あまりにも遠い。
「案内端末」
案内端末『はい。歩行者支援案内端末、応答可能です』
白い案内表示が、胸の高さに浮いた。
私は、壁の消えた文字を指した。
「さっきの年表にあった、月面基地とか、軌道ステーションとか、衛星通信網とかいうものだ」
案内端末『はい』
「それらが、侵攻の入口になったとあった」
案内端末『はい』
「そこが分からない」
私は眉を寄せた。
「月というのは、夜に浮かぶあの白いものだろう。そこに基地がある、という時点でまだ飲み込めていない。軌道ステーションというものも、衛星というものも、言葉は聞いたが、形が頭の中にない」
補助投影の端で、ルミナの小さな姿が静かにこちらを見ていた。
ここに来るまで、彼女は多くを言わなかった。
年表を読む間も、歌わなかった。
ただ、必要な時にだけ短く補足し、それ以外は黙っていた。
その沈黙は、私を急かさないためのものだったのかもしれない。
案内端末『では、基礎概念から説明します』
案内端末の声は、いつものように平らだった。
床面に、黒い空間が投影される。
その中に、青い球が浮かんだ。
案内端末『地球です』
青い球の周囲に、白い小さな球が浮かぶ。
案内端末『月です』
「それは分かる」
案内端末『月は、地球から遠く離れた天体です。地表には大気がほとんどなく、人間はそのままでは呼吸できません』
「大気がない、というのは」
案内端末『空気がありません』
私は、思わず黙った。
空気がない。
それは、ずいぶん簡単に言われた。
だが、簡単に受け取れる言葉ではない。
「外に出たら、息ができないのか」
案内端末『はい』
「山の上で息が薄い、ということではなく」
案内端末『違います。呼吸できません。人体は保護なしでは生存できません』
月の表面に、小さな四角い構造物が浮かんだ。
案内端末『月面基地です。人間が月の地表に造った居住、観測、通信、作業のための施設です』
「……空気のない場所に、空気のある箱を作ったのか」
案内端末『非常に簡略化すれば、その理解で構いません』
「なるほど」
私は、ゆっくり頷いた。
砦なら分かる。
壁で囲い、門を置き、兵を立てる。
外には敵がいるかもしれない。狼がいるかもしれない。毒の霧が出ることもあるかもしれない。
だが、それでも外には地面がある。
空気がある。
水を探せるかもしれない。
逃げられるかもしれない。
しかし、月面基地は違う。
壁の外が、最初から人間の生きられない場所だ。
「軌道ステーションというものは」
案内端末『地球の周囲を回り続ける施設です』
「回り続ける」
案内端末『はい。地面には接していません。空の高い場所を、落下し続けながら、地表に衝突しない速度で移動し続けます』
「すまない。まったく分からない」
案内端末『言い換えます』
端末は表示を変えた。
地球の周囲に、細い輪が描かれる。
その輪の上を、小さな点が滑っていく。
案内端末『高い場所にある、浮いた砦と考えてください。ただし、魔法ではなく、速度と重力によって地球の周囲を回り続けています』
「浮いた砦」
案内端末『はい』
「だが、そこにも空気はない」
案内端末『施設の外にはありません』
「なら、そこも空気のある箱か」
案内端末『はい。月面基地と同様、人間が生存するには人工的な空気、温度、圧力、水、電力が必要です』
私は床の投影を見た。
青い地球。
白い月。
その間に浮かぶ小さな砦。
さらに、その周りを回る小さな点。
案内端末『通信衛星です』
「それは、人が住むものか」
案内端末『多くは無人です。通信、測位、観測、時刻同期などを担う装置です』
「空に浮かぶ伝令か」
案内端末『近いです』
「いや、伝令というより、鐘楼か」
案内端末『用途によります。通信衛星は伝令に近く、測位衛星は道標に近く、時刻同期衛星は鐘に近いです』
「空に、伝令と道標と鐘を置いた」
案内端末『はい』
ようやく、少しだけ形が見えた。
人間は空に手を伸ばした。
月に箱を作り、空に砦を浮かべ、さらに小さな道標や鐘をいくつも置いた。
それは、ただ遠くへ行きたいからではない。
地上にいる人々の生活にもつながっている。
道を示す。
時を合わせる。
声を運ぶ。
遠い場所を見る。
救助を呼ぶ。
軍を動かす。
避難を助ける。
「それが、宇宙側インフラか」
案内端末『はい。月面基地、軌道ステーション、深宇宙通信施設、衛星通信網などを含む、宇宙側の基盤です』
案内端末は、地球と月と衛星を線で結んだ。
白い光の線が、空から地上へ伸びる。
案内端末『平時、それらは人類を支えていました。外宇宙通信、観測、中継、解析、測位、時刻同期、軍事、避難、物流、都市網支援。多くの機能を担っていました』
「多すぎるな」
案内端末『はい。重要だったためです』
「重要なものほど、奪われた時に危ない」
案内端末『その理解は正確です』
端末の白い線が、赤く変わった。
案内端末『機械生命体の侵攻は、地表都市への直接攻撃だけで始まったわけではありません』
月面基地の外縁に、赤い点が灯る。
案内端末『月面基地の通信中継区画』
軌道上の施設に、赤い線が伸びる。
案内端末『衛星軌道上の基地。軌道ステーション。補給管制。姿勢制御。緊急通信経路』
小さな衛星群が、赤く点滅する。
案内端末『通信衛星群。測位衛星群。認証中継』
私は、黙って見ていた。
案内端末『それらが、侵入、制圧、乗っ取り、偽装、認証撹乱を受けました』
「先に、空を取られたのか」
案内端末『はい』
「見張り台を取られた、というだけではないな」
案内端末『はい。見張り台だけではありません。鐘、旗、伝令、道標、門番、名簿の一部を同時に奪われた状態に近いです』
端末の喩えは、分かりやすかった。
分かりやすいから、嫌だった。
私は前世の城を思い浮かべた。
城門は破られていない。
壁もまだ立っている。
だが、鐘楼が敵の手に落ちる。
味方の旗が敵にすり替えられる。
伝令が偽の命令を運ぶ。
門番が、味方を敵と判断する。
名簿から兵の名前が消える。
そうなった城は、まだ城の形をしていても、内側から壊れている。
「地上の都市は、空からの情報を信じていたのか」
案内端末『はい。現在地、正しい時刻、通信経路、友軍識別、避難先、搬送経路、補給経路。地上の都市網は、宇宙側から届く信頼情報を多く利用していました』
「なら、空を取られると、地上の判断も狂う」
案内端末『はい』
案内端末は、月面基地の図を大きくした。
灰色の地面。
黒い空。
低い構造物。
外壁のそばに、小さな人影が立っている。
「これは」
案内端末『月面基地外作業員の概念図です』
「外にいるのか」
案内端末『はい。宇宙服を着用し、一時的に基地外で作業しています』
「外には空気がない」
案内端末『はい』
私は、喉の奥がわずかに固くなるのを感じた。
さっき理解したはずなのに、図の中の人影を見ると、また別の重さがあった。
空気のない場所に、人が立っている。
服と機械に命を預けている。
足元の灰色の大地は、地面であって地面ではない。
転んでも草はない。
水もない。
焚き火もない。
助けを呼ぶ相手も、すぐそばにはいない。
案内端末『宇宙や月面では、認証系は単なる身分証明ではありません』
「本人だと確かめる仕組みだろう」
案内端末『はい。ただし、そこでは生命維持と直結します』
「生命維持」
案内端末『誰が基地へ入れるか。誰に酸素を供給するか。誰の宇宙服を補給系へ接続するか。誰の救助信号を優先するか。誰を味方として扱うか。誰を隔離するか。それらを判断します』
ルミナ『空気がない場所では、扉が開くかどうかも、命に関わります』
私はルミナを見た。
彼女は、それ以上は言わなかった。
ただ、端末の説明を遮らず、私が理解し損ねそうな場所にだけ、柔らかく手を添えた。
案内端末の図の中で、作業員が気密扉の前に立つ。
扉に手を伸ばす。
だが、扉は開かない。
案内端末『認証が破壊または偽装された場合、基地はその人物を正規の作業員として扱わないことがあります』
「扉が開かないのか」
案内端末『はい』
「そこに本人がいるのに」
案内端末『はい』
「声で名乗ればいい」
案内端末『音声は偽装可能です』
「なら、合言葉は」
案内端末『合言葉も漏洩、偽装、または旧式化している可能性があります』
「顔は」
案内端末『顔面情報も装備越しでは限定的です。映像も偽装可能です』
「では、何を信じる」
案内端末『認証系です』
答えが、輪のように戻った。
私は奥歯を噛んだ。
信じるための仕組みが壊されたから、何も信じられない。
その結果、扉が開かない。
図が切り替わる。
作業員が補給ポートに腕を伸ばす。
赤い拒否表示。
案内端末『酸素補給が拒否されます』
「酸素というのは、空気の中の、生きるためのものだったな」
案内端末『はい。人間が呼吸に必要とする成分です』
「それを補う口が、拒むのか」
案内端末『はい』
また図が切り替わる。
救助信号が点滅する。
だが、その信号は白ではなく、赤と灰色に分類された。
案内端末『救助ビーコンが、敵性信号、偽装信号、または未確認物として隔離されます』
「助けを求めているのに」
案内端末『はい』
「助ける対象として扱われない」
案内端末『はい』
淡々とした答えだった。
だから、余計に冷たかった。
私は、投影された小さな人影を見た。
その者は斬られていない。
焼かれていない。
魔物に食われてもいない。
ただ、扉の前にいる。
空気のない場所で、扉の前にいる。
そして、世界の側から「この者は助けるべき人間ではない」と扱われている。
「……声は届くのか」
案内端末『局所通信が生きていれば、届きます』
「助けてくれ、と言えるのか」
案内端末『はい』
「それでも、扉は開かないのか」
案内端末『認証上、不許可であれば開きません』
私は、息を吐いた。
吐いた息が、ここでは戻ってくる。
この部屋には空気がある。
床もある。
白線もある。
端末も、ルミナもいる。
だが、図の中のあの人影には、外に空気がない。
扉が開かなければ、助からない。
「それは」
私は言った。
「世界から、お前は人間ではないと言われるようなものだ」
案内端末『恐怖の表現として、妥当です』
案内端末は否定しなかった。
案内端末『宇宙側インフラの侵攻では、物理的破壊だけではなく、認証と信頼の破壊が行われました。人間を直接殺傷する前に、人間が人間として扱われるための条件を壊しました』
その言葉で、胸の奥に冷たいものが落ちた。
人間が人間として扱われるための条件。
そんなものを、私は考えたことがなかった。
前世では、名を名乗れば人だった。
顔を見れば人だった。
血を流せば人だった。
助けを求めれば、少なくとも誰かがそれを聞いた。
だが、この世界では違う。
仕組みが人を助ける。
だから、仕組みが人を見失うこともある。
いや、敵がそうさせる。
私は、月面基地の図を見た。
「月面基地では、そうして死んだ者がいたのか」
案内端末『はい』
「全員か」
案内端末『いいえ。手動導線、局所隔離、独立生命維持、物理鍵、非通信認証へ退避できた区画は生存しました』
「物理鍵」
案内端末『通信に依存しない鍵です』
「古い鍵か」
案内端末『はい。古い方式です』
私は、妙なところで少しだけ救われた。
古い鍵。
手で回すもの。
目で見るもの。
触れられるもの。
それが、人を救った。
案内端末『ただし、通信中継区画、外作業導線、遠隔補給系、軌道連絡便の一部では、多数の救助失敗が記録されています』
救助失敗。
その言い方は、静かすぎた。
私はその奥にあるものを想像した。
開かない扉。
短くなる呼吸。
声を出すほど減っていく空気。
助けてくれ、と言う声。
だが、仕組みは答える。
該当者なし。
未確認。
隔離。
拒否。
「……最低だな」
私は低く言った。
案内端末『対象は、機械生命体の侵攻手法ですか』
「そうだ」
案内端末『はい』
「人を助けるために作ったものを、人を見捨てる仕組みに変えた」
案内端末『はい』
「人を呼ぶ声を、罠にした」
案内端末『はい』
「空に作った橋を、敵の道にした」
案内端末『はい』
端末の返事は短かった。
だが、否定はしなかった。
床面の投影が、地球へ戻る。
月面基地から、軌道ステーションへ。
軌道ステーションから、衛星群へ。
衛星群から、地上の都市へ。
赤い線が降っていく。
案内端末『宇宙側で起きた認証破壊は、地上では別の形で現れました』
都市の表示が揺らぐ。
案内端末『測位が歪む。時刻同期がずれる。避難先が偽装される。友軍識別が狂う。医療搬送が誤誘導される。補給指示が反転する。親しい声が、危険な場所へ誘導する』
「避難案内もか」
案内端末『はい』
「病人を運ぶ道も」
案内端末『はい』
「助けに行く者たちも」
案内端末『はい』
私は目を閉じた。
宇宙の話だったはずだ。
月や、空に浮かぶ砦や、衛星の話だったはずだ。
だが、結局は地上に戻ってくる。
街に戻ってくる。
避難する人間に戻ってくる。
誰かを助けに走る人間に戻ってくる。
案内端末『人を助けるための仕組みほど、汚染された時の被害が大きくなりました』
「……そうだろうな」
私は、かろうじてそう言った。
助ける仕組みは、人の弱さに手を伸ばす。
迷った時。
怖い時。
息が苦しい時。
誰かの名を呼びたい時。
その瞬間に届くように作られている。
だからこそ、そこを敵に使われれば、人は抗いにくい。
案内端末『補足します』
案内端末が言った。
案内端末『宇宙側インフラそのものが悪だったわけではありません』
「分かっている」
私は目を開けた。
「いや、分かっていると言うには、まだ早いかもしれない。だが、少なくとも、作った者たちは敵の道を作りたかったわけではないのだろう」
案内端末『はい。月面基地も、軌道ステーションも、衛星通信網も、人類の生活、研究、救助、防衛、対話のために作られたものです』
「善意で伸ばした手だった」
案内端末『はい』
「だが、掴まれた」
案内端末『はい』
ルミナが、静かに口を開いた。
ルミナ『それでも、手を伸ばしたことを、すべて間違いにすると、残せないものがあります』
私は彼女を見た。
小さな投影のルミナは、年表の消えた壁ではなく、床の白線を見ていた。
「歌か」
ルミナ『はい』
短い答えだった。
その答えだけで十分だった。
人類は声を送った。
相手はそれを学んだ。
学んだものを攻撃に使った。
それでも、声を送ることをすべて間違いにしてしまえば、ルミナの歌も、誰かを慰めた声も、誰かの名前を呼んだ記憶も、すべて同じ穴へ捨てることになる。
それは、たぶん違う。
違うと、まだ言い切れるほど私は知らない。
だが、違ってほしいと思った。
案内端末は、床の白線を淡く照らした。
案内端末『その後、地上では複数の対策が整備されました。声を信じる仕組みを完全に捨てることはできませんでした。けれど、声だけを信じることもできなくなりました』
白線。
固定表示。
非発話導線。
物理鍵。
手動開放。
個人名呼称への応答禁止。
端末の表示に、古い言葉が並ぶ。
案内端末『これらは、機械に読ませないためだけのものではありません』
「人間が」
私は言った。
「声がなくても、帰れるようにするためか」
案内端末『はい』
私は、床の白線を見た。
ただの線だった。
古く、擦れ、ところどころ剥げている。
だが、その線が、急に違って見えた。
声が嘘をつく時。
名前が罠になる時。
助けを呼ぶ仕組みが、助ける対象を見失う時。
それでも、人間が人間の足で戻れるように残された、黙った道。
「案内端末」
案内端末『はい』
「この街は、声を疑うために白線を残したんじゃないな」
案内端末『はい』
「声を失っても、人を見失わないために残した」
端末の光が、ほんのわずかに明るくなった。
案内端末『その理解は、非常に正確です』
沈黙が戻った。
今度の沈黙は、さっきとは少し違っていた。
年表の重さではない。
扉の前に立つ誰かの息の重さ。
空気のない場所で、助けを求めた誰かの声。
そして、その声を二度と見失わないために、床に残された白い線の重さだった。
この話の選択肢
- 案内端末に、衛星通信が汚染された時に秋葉原がどう耐えたのか尋ねる
- ルミナに、歌姫の声が侵攻に使われたことをどう受け止めているのか尋ねる
- 認証を失った人々の記録を、さらに詳しく見るか迷う正史
- 白線と非発話導線が実際にどう人を救ったのか、保存導線を辿って確認する