NoveLoreノベロア・物語の冒険者ギルド
転生したら秋葉原だったall

転生したら秋葉原だった湯気の一週間

前の話で選んだ選択肢炊事場内補助を続け、ミトラから支援食の仕組みを詳しく聞く

 私は、炊事場内補助を続けることにした。

 支援食の仕組みを、もう少し詳しく知りたかった。

 皿を洗い、床を拭き、器を分ける。

 それだけなら、戦場で剣を振っていた私には遠い仕事に思える。

 だが、この炊事場では、器の置き場所をひとつ間違えるだけで、誰かが食べられなくなる。

 濡れた床を見逃すだけで、誰かが倒れる。

 熱い器を赤い棚に戻さなければ、次に触れた子供が泣く。

 敵はいない。

 だが、失敗はある。

 それを知った以上、私はもう、この場所を軽く見ることができなかった。

「ミトラ」

ミトラ「ん?」

「支援食の仕組みを、もっと詳しく聞きたい」

 ミトラは大鍋の前で、長い柄の器具を止めた。

 湯気の向こうで、片眉が少し上がる。

ミトラ「急に真面目な顔するじゃん、隊長さん」

「私はいつも真面目だ」

ミトラ「うん。真面目すぎて、たまに床の方が緊張してる」

案内端末『床面に緊張機能はありません』

ミトラ「そういう話じゃないんだよ、端末くん」

案内端末『比喩と判断しました』

「判断したなら黙っていろ」

案内端末『支援中です』

 ミトラは笑って、手元の器具を鍋の縁に置いた。

ミトラ「仕組みを知りたいなら、一日で聞くより、一週間見た方が早いよ」

「一週間」

ミトラ「うん。一週間、ここで働く。皿、床、器、列、支援食、返却、例外対応。毎日少しずつ見る」

「七日も皿と床を相手にするのか」

ミトラ「敵じゃないからね」

「分かっている」

ミトラ「ほんとかなあ」

案内端末『七日間の低危険作業継続は、生活実績として有効です。保護付き仮登録者クオの作業適性評価にも寄与します』

「つまり、必要なことか」

案内端末『はい』

ミトラ「それに、炊事場ってけっこう情報多いよ。誰がどんな食事を必要としてるか、街がどうやって人を生かしてるか、だいたい見える」

「兵站の中心ということか」

ミトラ「半分くらい合ってる。でも、戦う人だけのご飯じゃない」

 ミトラは、返却口の奥を指した。

 一般返却。

 支援食用。

 義体調整者用。

 低刺激食。

 高栄養補助。

 未登録者初回支援。

 小さな文字が並び、それぞれの棚に違う色の縁がついている。

ミトラ「逃げてきた人も、登録が飛んだ人も、昨日まで働けてたのに今日は立てない人も、食べる。兵士じゃなくても、お腹は空くから」

 そうして、私の一週間が始まった。

 最初の日、私は器の種類を覚えた。

 熱い器は赤。

 冷却済みは青。

 握力が安定しない者の器には、手のひらに吸いつくような細かな凹凸がある。

 高齢者用は軽く、子供用は角が丸い。

 義体調整中の者の器は、見た目よりも重心が低い。

 ミトラはそれを、ただの道具としてではなく、一人ずつ違う体に合わせた小さな足場として教えた。

ミトラ「これ、普通の棚に戻すと、使う人が困る」

「形が少し違うだけに見える」

ミトラ「その少しで、こぼさず食べられる人がいるの」

 私は器を持ち直した。

 重さは大したことがない。

 だが、その軽さの中に、誰かの一食が乗っている。

 二日目、私は列を見た。

 支援食を受け取る者たちは、全員が同じ顔をしているわけではなかった。

 疲れた作業員。

 幼い子供を連れた女。

 古い外套の留め具を何度も確かめる老人。

 目元だけで周囲を警戒している若い男。

 義体の指をまだうまく曲げられず、受け取り台の縁を何度も探る者。

 私は、事情を知ろうとした。

 名を聞き、所属を聞き、どこから来たのか、なぜ支援食を受けるのかを確認しようとした。

 ミトラは、それを止めた。

ミトラ「聞かなくていい」

「だが、困っている理由が分からなければ、正しく助けられない」

ミトラ「ご飯だけで助かる日もあるよ」

 私は言葉を失った。

ミトラ「全部聞くのは、ちゃんと必要になってから。ここで最初にやるのは、食べられるものを出すこと。相手の事情を暴くことじゃない」

「暴くつもりはない」

ミトラ「うん。でも、聞かれる側にはそう感じることもある」

 ミトラの声は強くなかった。

 だが、鍋の湯気よりもまっすぐ私に届いた。

 前世では、名を聞くことは守るために必要だった。

 部隊を組むにも、負傷者を運ぶにも、捕虜か民かを見極めるにも、情報が要る。

 だが、この街では、名を聞かずに守る場面がある。

 それは、私にはまだ慣れない守り方だった。

 三日目、私は床を拭いた。

 ただ拭くのではない。

 濡れた場所を見つける。

 滑りやすい向きを見る。

 人が流れる線を塞がない。

 標識を先に出す。

 声を張る前に、表示を置く。

 戦場では、危険を見つけた者が叫ぶ。

 だが、炊事場で突然叫べば、熱い器を持つ者の手が跳ねる。

 ここでは、危険を知らせる声にも順番がある。

案内端末『床面注意表示を設置してください』

「ここか」

案内端末『三十センチ手前です』

「細かい」

案内端末『転倒予防において三十センチは大きい差です』

ミトラ「端末くんのそういう細かさ、今日は味方だね」

「いつも味方ではある」

案内端末『肯定します』

「うるさい味方だ」

案内端末『支援中です』

 四日目、私は初めて、列の詰まりを見つけた。

 支援食用の受け取り台で、表示が一瞬だけ遅れた。

 赤ではない。

 黒でもない。

 ただ、数字の更新が呼吸ひとつ分、遅れた。

 私の体は動きかけた。

 列の横へ入り、原因を探り、奥へ踏み込もうとした。

 その瞬間、ミトラの声が飛んだ。

ミトラ「隊長さん」

 私は止まった。

 足が半歩だけ前に出ていた。

 それでも、止まった。

「……表示遅延」

ミトラ「うん。報告」

「支援食用受け取り台、表示更新に短い遅れ。列の停止なし。転倒者なし。熱器接近なし」

案内端末『確認。通常混雑範囲内の表示遅延です。局所認証遅延ではありません』

ミトラ「はい、よくできました」

「子供扱いするな」

ミトラ「じゃあ、戦場式に飛び込まなかった大人扱い」

 私は返す言葉を探した。

 見つからなかった。

 ミトラは笑っていたが、茶化しているだけではなかった。

 止まれたことを、本当に評価している顔だった。

 五日目、私は熱い器に触れかけた。

 赤い縁の表示は見えていた。

 だが、隣の棚から落ちかけた小さな椀へ目が行き、右手が先に伸びた。

 手首を掴まれた。

 反射で、体が固まる。

 掴まれた手を抜き、相手の腕を取る動きが、奥で立ち上がった。

 だが、私はそれをしなかった。

 手首を掴んでいるのが、ミトラだと分かったからだ。

ミトラ「ごめん。でも今のは掴む。火傷する方が嫌だから」

「……いや。助かった」

 ミトラはすぐに手を離した。

 その指の温度だけが、少し残った。

ミトラ「怖かった?」

「拘束されたと思った」

ミトラ「そっか」

「だが、敵意はなかった」

ミトラ「うん。ないよ」

 短い会話だった。

 それ以上、ミトラは踏み込まなかった。

 私も説明しなかった。

 けれど、その日からミトラは私の近くを通る時、少しだけ声を先に置くようになった。

ミトラ「後ろ通るよ」

ミトラ「右、熱いの持ってる」

ミトラ「今ちょっと近い」

 それだけで、私は驚かずに済んだ。

 六日目、支援食の仕組みを、ミトラがまとめて教えてくれた。

 炊事場の奥、保温庫の光が柔らかく落ちる場所だった。

ミトラ「認証がちゃんと動いてる時は、その人に合った食事が出る。年齢、義体調整、薬、アレルギー、作業負荷、避難状態。全部を見て、出せる範囲で合わせる」

「それほど個人情報を使うのか」

ミトラ「使う。でも、見せすぎない。炊事場の人間に全部は見えない。必要な表示だけ」

案内端末『支援食提供における個人情報表示は最小化されています』

「では、認証が壊れた時は?」

ミトラ「最低限、安全なものを先に出す。身元がはっきりしなくても、敵性判定が出てなくて、明らかな危険がなければ食べさせる。記録は後で整理する」

「危険ではないのか」

ミトラ「危険だよ」

 ミトラは、あっさりと言った。

ミトラ「でも、お腹が空いた人を、先に敵扱いし始めた街は長く持たないよ」

 その言葉は、湯気の中で静かに残った。

 私の前世なら、食料は命だった。

 身元不明者へ与えるかどうかで、部隊の明日が変わる。

 敵の斥候かもしれない。

 毒を運ぶ者かもしれない。

 逃亡兵かもしれない。

 疑う理由はいくらでもある。

 それでも、ミトラは食べさせると言った。

 この街は、疑う仕組みを持ちながら、疑いだけで人を飢えさせないように作られている。

 それは甘さではない。

 崩れないための強さだ。

 七日目の昼過ぎ、私の作業記録が表示された。

案内端末『炊事場補助、七日間継続。食器破損なし。熱傷事故なし。床面転倒事故なし。支援食提供遅延なし。許可前行動の抑制、改善。観察報告の精度、向上』

「敵は倒していない」

案内端末『誰も転ばせていません』

ミトラ「それ、けっこう大事」

 ミトラは、私の右手を見た。

 親指の付け根に、赤い跡があった。

 熱い器に触れたわけではない。

 ただ、布巾を絞り、器を運び、棚を拭き続けた手が、少しだけ二三〇〇年の炊事場に負けていた。

ミトラ「手、出して」

「この程度、傷ではない」

ミトラ「傷になる前に止めるの」

 ミトラは冷却布を取り出し、私の手に巻いた。

 白く薄い布が、肌に触れる。

 冷たさがゆっくり染みてきた。

 戦場では、動く限り傷ではなかった。

 血が流れても、剣が握れるなら戦える。

 骨が折れても、立てるなら退けない。

 だが、ここでは違う。

 傷になる前に止める。

 倒れる前に座らせる。

 飢える前に食べさせる。

 壊れる前に、支える。

「……この街は、妙なところで早いな」

ミトラ「何が?」

「傷になる前に止めるところだ」

ミトラ「そこは早くていいんだよ」

 ミトラは布の端を軽く押さえた。

 その指先に、敵意はない。

 拘束でもない。

 命令でもない。

 ただ、私が明日も手を使えるようにするための、短い接触だった。

案内端末『生活実績の蓄積により、次段階の低危険作業候補を提示可能です』

 壁面表示が切り替わった。

 旧秋葉原駅前広場の案内札清掃。

 再整備倉庫内の旧式装備整理。

 旧部品市外縁の通信タグ点検、監督者同行条件付き。

 中央通り方面への作業報告および通常導線確認。

 文字列が並ぶ。

 一週間前なら、私は危険なものから見ただろう。

 今は違う。

 どれが今の私に許され、どれが誰かの邪魔をせず、どれが次の一歩になるのかを見ていた。

ミトラ「そろそろ、次に行ってみる?」

「ここで学べることは、まだある」

ミトラ「あるよ。たぶん、一年いてもある」

「なら、残るべきか」

ミトラ「それは違う」

 ミトラは笑った。

ミトラ「炊事場は、帰ってくる場所にもなるから」

「帰ってくる場所」

ミトラ「うん。次の仕事で失敗しても、疲れても、お腹は空くでしょ。そしたら戻ってくればいい」

 帰ってくる。

 その言葉を、私は少しだけゆっくり受け取った。

 前世で、帰る場所は何度も焼けた。

 砦も、村も、天幕も、野営地も、帰るつもりで離れ、戻った時には別のものになっていた。

 だが、この街は帰る場所を作ろうとする。

 仮の帰宅。

 支援食。

 短期滞在区画。

 湯気のある炊事場。

 誰かが明日も来られるように、器を洗い、床を拭く。

 剣では開かない扉がある。

 だが、布と器と湯気で開く扉もある。

 私は、それを一週間かけて知った。

ミトラ「そういえばさ、隊長さん」

「何だ」

ミトラ「最近、ルミナに会ってる?」

 不意に出た名に、私はすぐ答えられなかった。

 中央通りに戻った歌。

 街へ届く声。

 歌糸。

 低深度、片方向、短時間、記録隔離つきの歌唱状態観測。

 目標としては、何度も思い出している。

 だが、会いに行ったかと問われれば。

「……いや」

 答えてから、少し遅れて胸の奥が沈んだ。

「会っていない。今は、保全協力者になるために必要な実績を積むことを優先している。歌糸も、返響操糸も、第三退避記録庫も、近づくには順番がある」

ミトラ「うん。順番は大事だね」

 ミトラは否定しなかった。

 ただ、私の手首に巻いた冷却布の端を、もう一度軽く押さえた。

ミトラ「でも、それじゃルミナ、寂しがるよ」

「公共慰撫投影人格が、か」

ミトラ「そういう言い方すると、もっと寂しがる」

 私は返す言葉を失った。

 ルミナは街の歌姫だ。

 中央通りに歌を戻し、たくさんの人へ声を届ける存在だ。

 私ひとりが会いに行かなくても、彼女には役目がある。

 そう考えていた。

 そう考えたことが、少し冷たかった。

ミトラ「目標に近づくのはいいよ。隊長さん、ちゃんと進んでる。でもさ」

 ミトラは、布の端を離した。

ミトラ「近づくって、離れっぱなしになることじゃないからね」

 遠くで、中央通りの歌が聞こえた気がした。

 本当に聞こえたのか。

 ただ、私が思い出しただけなのか。

 分からない。

 だが私は、壁面表示の次の候補を、もう一度見た。

 次の仕事を選ぶ時が来ていた。

 そして、会いに行くべき相手の名も、そこにあった。

この話の選択肢

  1. 旧秋葉原駅前広場の案内札清掃に向かい、古い高架と電気街の名残を見る
  2. 再整備倉庫内の旧式装備整理を手伝い、工具と装備の扱いを学ぶ
  3. 監督者同行で、旧部品市外縁の通信タグ点検を申請する
  4. 中央通りへ寄り、仕事の報告も兼ねてルミナに会いに行く正史