転生したら秋葉原だった湯気の中の初仕事
前の話で選んだ選択肢危険度最低の炊事場補助を選び、ミトラのもとで生活実績を積む
私は、緑の枠を選んだ。
危険度一。
第七層共同食堂・アキバ炊事場補助。
食器洗浄、食材搬送、床面清掃、低温保管庫の整理。
壁に並ぶ文字の中で、それは一番弱い色をしていた。
だが、弱い色だからといって、軽い仕事とは限らない。
「これにする」
案内端末『確認します。危険度最低の作業候補を選択。目的は生活実績の形成、炊事場補助による基礎作業適性の確認です』
「言い方が堅い」
案内端末『正式表示です』
「正式なものは、たいてい堅い」
案内端末『同意します』
案内端末が同意すると、なぜか少し腹が立つ。
壁の表示が切り替わった。
作業前注意。
刃物に触れない。
熱湯周辺へ許可なく接近しない。
認証付き調理機器を操作しない。
現場責任者の指示を優先する。
戦場式の即応判断をしない。
「最後の項目は、私に向けたものだな」
案内端末『はい』
「戦場式の即応判断とは何だ」
案内端末『許可より先に体が動くことです』
私は黙った。
それは、何度も命を救った。
仲間の盾が崩れる前に動く。
敵の詠唱が終わる前に斬る。
天幕に火が回る前に水を蹴る。
戦場では、考えてから動く者が間に合わないことも多い。
だが、ここは戦場ではない。
この世界では、許可より先に動く手が、誰かの権利や安全を踏むことがある。
「分かった。今日は、勝手に動かない」
案内端末『記録しました』
「記録するな」
案内端末『自己制御宣言は有用です』
「便利な言葉だ」
案内端末『六回目です』
私は旧式の作業靴の紐を確かめ、休息室を出た。
短期滞在区画の通路は、朝の光に似た白さで満たされていた。
本物の朝日かは分からない。
この街は、空の見えない場所にも朝を配る。
壁の奥を流れる機械音、透明な案内線、足元に薄く浮かぶ進行方向。
その隙間に、遠くのルミナの歌がまだ残っていた。
私はそちらへ行かなかった。
中央通りではなく、旧部品市側へ向かう。
歌ではなく、湯気のある場所へ。
案内端末『現在の主目的は生活実績記録です』
「実績、か」
案内端末『はい』
「私の世界では、実績と言えば戦果だった」
案内端末『この作業では、皿を割らず、床を滑りやすい状態にせず、支援食提供を遅らせないことが実績になります』
「地味だな」
案内端末『生存基盤は地味です』
「だが、崩れると全員が困る」
案内端末『はい』
旧部品市側へ近づくにつれ、空気が少し変わった。
中央通りの光は薄まり、代わりに古い看板の骨や、保存された配線の束、かつての店名を抽象化した投影標識が増える。
電気街。
部品。
ジャンク。
修理。
そういう言葉の名残が、二三〇〇年の素材で包まれながら、まだ通路の端に残っている。
古い街は死んでいない。
形を変え、名前を変え、生活の中に紛れている。
アキバ炊事場は、その奥にあった。
開いた入口から、湯気が出ている。
香りもある。
合成食材の匂いだけではない。出汁のような、焼けた油のような、温められた器のような、人がいる場所の匂いだ。
ミトラ「お、来た」
ミトラが大きな鍋の向こうから顔を出した。
袖をまくり、髪をまとめ、昨日よりずっと炊事場の人間らしい顔をしている。
ミトラ「ほんとに一番安全なの選んだんだ。えらいじゃん、隊長さん」
「私は子供ではない」
ミトラ「子供じゃなくても、危ない方に走らなかったらえらいんだよ」
案内端末『肯定します』
「お前は黙っていろ」
案内端末『支援中です』
ミトラ「ほら、端末くんも褒めてる」
「褒め方が硬すぎる」
ミトラ「隊長さんも受け取り方が硬い」
ミトラは笑いながら、私の足元から肩までを一通り見た。
ミトラ「靴、昨日より馴染んでる?」
「歩ける。走るには、まだ少し信用が足りない」
ミトラ「走らないでね。ここで走る人、だいたい怒られるから」
案内端末『炊事場内走行は禁止です』
「走らない」
ミトラは満足そうにうなずいた。
ミトラ「じゃあ、最初の仕事」
私は少しだけ身構えた。
食器か。
床か。
重い荷か。
熱い鍋か。
ミトラ「五分、何もしないで見て」
「……それは仕事か」
ミトラ「仕事だよ」
案内端末『観察工程です』
「見ているだけで実績になるのか」
ミトラ「見ないで動く人は、実績じゃなくて事故を作るの」
返す言葉がなかった。
ミトラは私を炊事場の端に立たせた。邪魔にならず、全体が見える位置だった。
ミトラ「まず、食器が戻ってくる流れ。あっちが一般返却。こっちが支援食用。赤い印が熱い器。青い印が冷却済み。欠けてるのは右の箱。勝手に戻すと、子供とか口を切るから」
子供。
口を切る。
その言葉だけで、ただの器が急に危険物に見えた。
ミトラ「義体調整中の人用は形が違う。握力が安定しない人もいるから、滑り止め付き。高齢者用は軽い。未登録者支援食は、刺激を落としてあるから器も別」
「食事にも、隊列があるのだな」
ミトラ「隊列?」
「誰が、どこから受け取り、どこへ返すか。乱れれば詰まる」
ミトラ「うん。だいたい合ってる。でも、敵を倒すためじゃなくて、みんなが食べるための隊列ね」
私は炊事場を見た。
人が動いている。
鍋の前。
返却口。
低温保管庫。
食材搬送路。
支援食の受け渡し口。
誰も剣を持っていない。
誰も叫んでいない。
だが、全員が動くべき場所を知っている。
これは、静かな陣形だ。
湯気の中にある、生活の陣形。
その時、返却口の一角で器が少し詰まった。
熱い器と冷めた器が混ざりかけている。
反射的に、足が出かけた。
案内端末『許可前行動です』
私は止まった。
足の裏に、旧式作業靴の硬さを感じる。
ミトラがこちらを見ていた。
ミトラ「気づいたのは正解。でも、勝手に動いたら不正解」
「……分かっている」
ミトラ「分かってるなら大丈夫。今のは、あっちの人が直す流れ」
ミトラが顎で示した先で、別の作業員が器を分け直した。
私が出る必要はなかった。
私が出れば、むしろ邪魔だった。
その事実は、少し苦かった。
ミトラ「悔しい?」
「少し」
ミトラ「いいよ。悔しがって。でも、覚えて。炊事場で強い人は、全部自分でやる人じゃない。自分が入っていい場所を間違えない人」
私は息を吐いた。
「戦場でも、本当はそうだったのかもしれない」
ミトラ「へえ」
「強い者が前に出続ければ、隊は一時的に助かる。だが、後ろの者が育たない。補給も、伝令も、治療も、全部乱れる」
ミトラ「隊長さん、たまにちゃんと隊長っぽいね」
「たまにとは何だ」
案内端末『頻度評価としては妥当です』
「お前は本当に黙っていろ」
ミトラが笑った。
五分が過ぎた。
ミトラは私に布と薄い手袋を渡した。
ミトラ「じゃあ、床。濡れてるところを拭く。熱い器には触らない。欠けた器を見つけたら、あっちの箱。迷ったら聞く。勝手に判断しない」
「了解した」
ミトラ「軍隊っぽい返事」
「他の返事を知らない」
ミトラ「じゃあ今日は、それでいいよ」
私は布を持って、床を見た。
水滴。
油。
湯気が冷えて落ちた細かい湿り。
ただ濡れているだけではない。
歩く人の向き、器を持つ高さ、子供が通るかどうか、義体の足が滑るかどうか。
床は、思ったより多くの情報を持っていた。
私は膝を落とし、拭いた。
剣を振る時のように、重心を崩さない。
肩に力を入れすぎない。
視線は一点に固定しない。
布の端が、床の継ぎ目に引っかからないようにする。
ミトラ「床は斬らなくていいよ」
「斬らないために集中している」
ミトラ「真面目だなあ」
案内端末『床面清掃姿勢は安定しています。ただし過剰緊張です』
「床拭きにまで評価があるのか」
案内端末『あります』
「この世界は何でも測る」
ミトラ「測っても、最後は人が見てるよ」
ミトラの声は、鍋の湯気の向こうから聞こえた。
私は床を拭きながら、返却口を見た。
支援食の受け渡し口に、数人が並んでいる。
年寄り。
片腕が金属の女。
服の規格がばらばらな少年。
目元だけを覆う古い医療補助具をつけた男。
誰が市民で、誰が未登録者なのか、私には分からない。
だが、ミトラたちはそれを大声で区別しない。
器を渡す。
湯気を渡す。
短い言葉を渡す。
それだけだ。
突然、受け渡し口の小さな表示が一瞬だけ遅れた。
私の体が反応しかける。
通信遅延。
局所認証。
旧部品市。
昨日から頭に入れられた言葉が、勝手に並ぶ。
案内端末『通常混雑範囲。局所認証遅延ではありません』
私は布を握ったまま、足を止めた。
今、私がするべきことは何だ。
前へ出ることか。
表示を睨むことか。
返響視を使おうとすることか。
違う。
「私は、今は床を拭く係だ」
小さく言うと、ミトラがこちらを見た。
それから、少しだけ目を細めた。
ミトラ「うん。助かる」
助かる。
たったそれだけの言葉だった。
だが、胸の奥に妙に残った。
私は敵を倒していない。
異常を見抜いてもいない。
誰かを守るために前へ出てもいない。
ただ、床を拭いている。
それで助かると言われた。
炊事場の仕事は、しばらく続いた。
欠けた器を分ける。
濡れた床を拭く。
低刺激支援食用の軽い器を揃える。
搬送路に足を置かない。
熱い棚の印を覚える。
同じ動作を繰り返すうちに、炊事場の音が少しずつ分かってきた。
鍋の蓋が鳴る音。
器が重なる音。
認証表示の短い音。
人が礼を言う声。
誰かが咳をして、すぐ水を受け取る音。
ここは静かな場所ではない。
だが、戦場の騒音とも違う。
生きるための音が重なっている。
休憩の短い隙間に、ミトラが水を渡してくれた。
ミトラ「どう? 危険度最低の仕事」
「侮っていた」
ミトラ「正直」
「敵はいない。だが、失敗すれば誰かが怪我をする」
ミトラ「そう」
ミトラは、湯気の向こうの列を見た。
ミトラ「ここはね、誰かを英雄にする場所じゃないんだよ。誰かを明日まで持たせる場所」
その言葉は、鍋の湯気よりも静かに広がった。
ミトラ「未登録の人も来る。避難してきた人も来る。記録が欠けてる人も、義体の調整が間に合ってない人も来る。みんな、すごい話をしに来るわけじゃない。今日、食べるために来る」
「今日、食べるため」
ミトラ「うん。今日食べたら、明日ちょっと考えられるでしょ」
私は水を飲んだ。
前世の野営地を思い出す。
泥の中で炊かれた粥。
焦げた豆。
乾いた肉。
名前も覚えていない炊事係。
彼らがいなければ、私は次の日に剣を振れなかった。
だが、戦の記録に残るのは、たいてい剣を振った者の名だ。
鍋を守った者の名ではない。
「私の世界にも、こういう場所はあった」
ミトラ「炊事場?」
「野営の飯場だ。だが、私はそれを、戦うための支えとして見ていた。飯そのものが人を明日へ運んでいるとは、あまり考えなかった」
ミトラ「じゃあ、今日は考えた?」
「考えさせられた」
ミトラ「なら、生活実績だけじゃなくて、学習実績もついたね」
案内端末『学習実績という正式区分はありません』
ミトラ「端末くん、そこは乗ってよ」
案内端末『比喩としては有効です』
「お前たちは、たまに似ている」
ミトラ「え、やだ」
案内端末『不本意です』
「同時に嫌がるな」
少しだけ笑いが起きた。
重い世界でも、炊事場には笑いがある。
それは、ふざけているからではない。
笑えない場所を、少しでも人の場所に戻すためなのだろう。
作業が一段落した頃、ミトラが端末表示を確認した。
ミトラ「はい、初回補助終了。皿、割ってない。床、滑らせてない。列、止めてない。勝手に機器、触ってない」
「最後は当然だ」
案内端末『昨日の視線反応を考慮すると、当然とは断定できません』
「まだ言うか」
ミトラ「言われるうちが花だよ、隊長さん」
案内端末の投影に、小さな表示が浮かんだ。
案内端末『生活実績、一件記録』
私は、その文字を見た。
生活実績。
一件。
戦果ではない。
討伐数でもない。
勲章でもない。
だが、この街のどこかに、私が床を拭き、器を分け、誰も転ばせなかったことが記録された。
それは小さい。
小さすぎるほどだ。
だが、昨日の私にはなかったものだ。
私は今日、誰も倒さなかった。
だが、誰かを転ばせずに済んだ。
「これは、悪くないな」
ミトラ「でしょ」
案内端末『肯定します』
「今のは、褒められたと受け取る」
案内端末『適切です』
ミトラ「じゃあ次、どうする? 炊事場の中をもう少しやる? それとも、支援食の列の方を見てみる?」
ミトラが、湯気の向こうで笑った。
ミトラ「いきなり危険な方に走らないなら、選べることは増えるよ」
私は炊事場を見渡した。
鍋。
器。
床。
支援食の列。
旧部品市へ続く搬送口。
この街で生きるための入口は、思っていたよりも多い。
剣では開かない扉がある。
だが、布と器と湯気で開く扉もある。
私は、次の仕事を選ぶことにした。
この話の選択肢
- 炊事場内補助を続け、ミトラから支援食の仕組みを詳しく聞く正史
- 支援食配布列の観察に回り、未登録者たちの事情を見る
- 旧部品市側への短距離配達補助を申し出る
- 作業後、案内端末に生活実績が登録にどう影響するか確認する