転生したら秋葉原だった光の歌姫
前の話で選んだ選択肢幻影の歌姫がいる中央通りへ引き返す
私は三歩進んで、止まった。
西側の看板はまだ見えている。
『人類防衛史アーカイブ』 『第七展示区:初期侵攻と大陸喪失』
敵の名も見えている。
機械生命体。
その響きは、白い空間で女神が語った言葉と同じ重さで、胸の底に沈んでいた。あれを知るべきだ。何がこの世界を壊し、何が私の世界まで歪めたのか。剣のない今でも、敵を知ることは戦いの第一歩だ。
だが、私は西へ向かわなかった。
「案内端末」
『はい』
「さっきの歌は、何だ」
『定時投影ライブです』
「それは聞いた。あの女は何者だ」
『中央通り公共慰撫投影人格、通称《ルミナ》です』
「公共……なんだ」
『公共慰撫投影人格です』
「一度で覚えられる名ではないな」
『通称《ルミナ》で問題ありません』
「なら最初からそう言え」
『正確性を優先しました』
「正確すぎる言葉は、ときどき不親切だ」
『学習します』
案内端末はそう言って、私の肩の横で小さく上下した。先ほどから妙に素直で、かえって調子が狂う。
私は西側の看板から目を離し、中央通りへ向き直った。
巨大な女の幻影が、光の粒をまとって歌っている。
遠目には、祭礼で神殿に立つ巫女にも見えた。だが、近づくにつれて違いは明らかになった。足は地面についていない。衣は布ではなく光そのもので、風もないのに音楽に合わせて揺れている。髪は長く、青とも銀ともつかない色で、揺れるたびに細かな文字列のようなものがほどけて消えた。
人ではない。
亡霊でもない。
魔法の幻でもない。
では何かと問われれば、今の私には答えがない。
『引き返しますか』
「西へ行くと言ったな」
『はい』
「言った直後に考え直した」
『理由を記録しますか』
「する必要があるのか」
『臨時滞在者の行動傾向分析に役立ちます』
「なら記録しろ。敵を知る前に、守るべきものを知る」
案内端末は沈黙した。
『記録しました』
「今ので分かるのか」
『意味解釈に不確実性があります。ただ、あなたが中央通りに関心を持ったことは記録しました』
「十分だ」
私は人の流れに逆らわないよう、中央通りへ戻った。
歌声は、近づくほど奇妙だった。
大きいのに、耳を刺さない。通り全体に響いているのに、隣の客同士の会話を邪魔していない。戦場の号令とは違う。神殿の聖歌とも違う。だが、声の芯にあるものだけは分かった。
祈りだ。
誰かに向けているのか、誰かを慰めているのか、それとも街そのものを眠らせないために歌っているのか。そこまでは分からない。けれど、ただ楽しませるためだけの歌ではない。
観客たちは笑っていた。
手を振る者がいる。空中に指を滑らせて光の花を投げる者がいる。小さな子供が、母親らしき女の肩の上で両手を伸ばしている。老人もいた。機械の脚をつけた男もいた。鎧ではなく、滑らかな外殻を片腕にまとった若い女もいた。
皆、武器を持っていないように見える。
だが、皆、戦争の中で生きている。
私はその輪の外に立った。
幻影の歌姫が、こちらを向いた。
気のせいかと思った。
巨大な投影なのだから、街全体を見るように顔を動かしているだけだろう。そう考えたのに、歌姫の視線は私のいる一点で止まった。光でできた瞳が、まっすぐこちらを見る。
私は反射的に姿勢を正した。
『どうしました』
「目が合った」
『対象は全観客に対し視線同期演出を行います』
「全員と目が合うのか」
『そのように感じられる設計です』
「便利だな」
『高評価の演出です』
「では、なぜあの女はまだ私を見ている」
案内端末の黒い目が、歌姫と私を交互に向いた。
『……局所視線固定を確認』
「演出か」
『通常演出ではありません』
「そういうことを先に言え」
『私も今、確認しました』
歌が終わった。
中央通りに拍手と歓声が広がる。空中に無数の光が弾けた。花の形、鳥の形、知らない文字の形。それらが一斉に舞い上がり、天井の見えない高架の下で星のように散っていく。
私は、拍手をしなかった。
仕方がない。
この世界の拍手の作法が分からない。戦勝の拍手なのか、祈りの拍手なのか、芸への礼なのか。間違えれば、変なところで宣戦布告になるかもしれない。
『拍手は任意です』
「心を読むな」
『手の動きがありませんでしたので』
「そういうところだ」
歌姫が微笑んだ。
『本日の第七層定時慰撫投影は、これで終了します』
声が通り全体へ広がる。
『次回投影は、標準時十九時。なお、現在、北太平洋防衛線における大規模交戦の公式発表はありません。秋葉原都市圏の警戒レベルは三。市民の皆さまは通常活動を継続してください』
拍手の熱が、ほんの少しだけ変わった。
誰かが小さく息を吐いた。子供を抱えた女が、胸元に手を当てた。老人が目を閉じた。笑っていた若者たちのひとりが、空を見上げた。
私はその変化を見逃さなかった。
「今のは、朗報か」
『はい。北太平洋防衛線で大規模交戦が発生していないという発表です』
「発生していないだけで、安堵するのか」
『はい』
「毎日、発生する可能性があるのか」
『はい』
歌の余韻が、急に冷えた。
この街の光は明るい。
だが、明るさは安全の証ではない。夜の戦場で篝火を焚くようなものだ。人は暗闇に呑まれないために火を焚く。ここでは、その火が広告であり、音楽であり、幻影の歌姫なのだろう。
歌姫の姿が薄くなり始めた。
観客たちは散っていく。店へ戻る者、空中の道へ上がる者、誰かと腕を組む者。誰も泣き崩れない。誰も叫ばない。皆、慣れている。
慣れてしまっている。
「案内端末」
『はい』
「この歌姫は、生きているのか」
『定義によります』
「一番嫌な答え方をするな」
『《ルミナ》は人間ではありません。公共慰撫用に運用される投影人格です。ただし、対話機能、記憶補助、情動応答、都市広報、避難誘導、慰霊式典対応を備えています』
「つまり、ただの絵ではない」
『はい』
「魂はあるのか」
『回答不能です』
「だろうな」
私は消えかけた歌姫を見上げた。
光の瞳が、まだこちらを見ていた。
次の瞬間、私の耳元で声がした。
『未登録の来訪者さん』
私は全身の力を落とさず、ゆっくりと周囲を見た。
近くに女はいない。
観客たちは普通に歩き去っている。誰も今の声に反応していない。案内端末だけが、私の肩の横でぴたりと静止していた。
「今、聞こえたか」
『はい』
「お前ではないな」
『はい』
『こちらです』
再び声。
今度は、目の前に小さな光が集まった。通りの端、店と店の間に置かれた黒い柱。その上に、掌ほどの小さな歌姫が現れる。先ほどまで通り全体を包んでいた巨大な幻影と同じ顔。同じ髪。同じ光の衣。
だが、大きさだけが違う。
まるで、戦場の巨大な軍旗が、手のひらの護符になったようだった。
『こんばんは』
小さな歌姫は、丁寧に頭を下げた。
私は少し迷い、同じように頭を下げた。
「こんばんは、で合っているか」
『はい。合っています』
「なら、こんばんは」
『あなた、変わった反応をしますね』
「今日、この街に来たばかりだ」
『記録上は、今日どころか、どこにも来た記録がありません』
「それは、案内端末にも言われた」
『でしょうね』
歌姫は微笑んだ。
その微笑みは、先ほどの観客全員へ向けたものより、少しだけ薄く、少しだけ本物に見えた。
『あなたの発話ログ、少し見ました』
「発話ログ」
『案内端末との会話記録です』
私は案内端末を見た。
「お前、私の会話を他人に渡したのか」
『公共安全および未登録者支援の範囲内で、関連公共人格への共有が許可されています』
「つまり渡したのだな」
『はい』
「正直なのは美徳だが、腹は立つな」
『申し訳ありません』
案内端末は本当に申し訳なさそうに高度を少し下げた。
歌姫がくすりと笑った。
『あなた、怒っているのに優しいですね』
「怒りながら斬らないのは、優しさではなく常識だ」
『でも、剣は持っていないのでしょう?』
「そこまで見たのか」
『はい。あなたは、剣がないことを何度も確認しています』
「癖だ」
『戦う人の癖ですね』
私は黙った。
歌姫の声は柔らかい。だが、その奥に妙な鋭さがあった。人間ではないはずなのに、人の沈黙を読むのがうまい。
『対機械生命体戦史展示へ行くつもりでしたね』
「そのつもりだった」
『行く前に、中央通りへ戻った』
「ああ」
『なぜですか』
私は、先ほど案内端末に言ったのと同じことを答えようとして、やめた。
敵を知る前に、守るべきものを知る。
それは嘘ではない。だが、少し格好をつけすぎている気がした。
「歌が聞こえた」
『はい』
「戦場で、歌は遠くまで届く。号令よりも、悲鳴よりも、時には剣よりも遠くへ届く」
私は中央通りを見た。
もう観客の輪はほどけている。光の花も消えた。けれど、人々は少しだけ軽くなった足取りで、それぞれの場所へ戻っていく。
「あの歌が、何を守っているのか知りたくなった」
歌姫は、すぐには返事をしなかった。
光でできた小さな瞳が、こちらを見つめる。
『それを言語化した来訪者は、久しぶりです』
「ほかにもいたのか」
『昔は、たくさん』
「昔?」
『戦争が近かった頃です』
「今も近いのではないのか」
『今は、近いことに慣れた頃です』
その言葉は、短いのに重かった。
戦争が近いことに慣れる。
それは、剣が折れることに慣れるより悪い。食料が尽きることに慣れるより悪い。人が死ぬことに慣れるより、たぶん悪い。慣れた瞬間から、人は危険を危険として扱わなくなる。
私の世界でも、そういう兵は早く死んだ。
『あなたは、この街の人ではありませんね』
「そうだ」
『日本の人でもない』
「違う」
『地球の人でもない』
案内端末が小さく震えた。
『ルミナ、推論根拠を提示してください』
『彼は、私の歌を娯楽として処理しなかった。慰撫としても、広報としても処理しなかった。祈りとして認識しました』
『それは文化差の範囲です』
『彼は北太平洋防衛線の無交戦発表で、周囲の微細な安堵反応を読んだ。一般観光客より戦場反応が強い』
『それも観察力の範囲です』
『そして、彼の生体照合はゼロ。履歴もゼロ。市民圏外流入者にも、難民記録にも、仮想人格にも該当しない』
『未登録者の可能性があります』
『未登録者は、自分を転生者とは呼びません』
私はため息をついた。
「案内端末より話が早いな」
『私は話を聞くために作られていますから』
「歌うためではなく?」
『歌うことも、話を聞くことの一部です』
なるほど。
私はこの光の女を、少しだけ見直した。
神殿の聖歌隊にも、似たような者がいた。歌で兵を鼓舞するだけではない。酒場で荒れた兵の愚痴を聞き、眠れない子供の隣に座り、葬儀で泣けない者の代わりに声を震わせる。そういう者の歌は、剣より弱く、剣より長く残る。
『あなたに、質問してもいいですか』
「私に答えられることなら」
『あなたは、敵ですか』
案内端末がわずかに高度を上げた。
周囲の光が、ほんの少しだけ硬くなったように感じた。通りを歩く人々は変わらない。だが、見えない何かがこちらを向いた。弓兵が一斉に弦へ指をかける直前の、あの空気に似ていた。
私は両手を開いた。
剣はない。
それを示すためではない。敵ではないと示すには、武器がないだけでは足りない。だが、何もしないよりはいい。
「少なくとも、この街の敵ではない」
『この街以外の敵ですか』
「機械生命体というものが、私の世界を歪めた原因なら、私はそれの敵だ」
『あなたの世界』
「ああ」
『剣と魔法の世界』
「案内端末から聞いたな」
『はい』
「信じるのか」
『完全には』
「正直だな」
『ただ、嘘として処理するには、あなたは下手すぎます』
「それは褒めているのか」
『はい』
「そうか。腹は立たない」
歌姫はまた笑った。
その瞬間、通りの片隅で小さな警告音が鳴った。
赤ではない。黄色い光が、柱の根元に一瞬だけ走る。案内端末が即座に反応した。
『軽度通信干渉を検出』
「敵か」
『未確定です。中央通りの投影柱にノイズが入りました』
歌姫の小さな姿が、一瞬だけ乱れた。
髪の光が、砂のように崩れる。
私は反射的に一歩前へ出た。
守るものの前に出る癖は、どうやら死んでも治らなかったらしい。
『大丈夫です』
歌姫は言った。
『よくあることです』
「よくあることを大丈夫とは言わない」
『第七層では、まだ大丈夫の範囲です』
「嫌な言い方だ」
『ここは戦争の中にある街ですから』
その言葉は、先ほど私が思ったことと同じだった。
だが、光の歌姫の口から聞くと、少し違って聞こえた。諦めではない。慣れでもない。報告でもない。
それは、守られている側ではなく、守る側の言葉だった。
『未登録の来訪者さん』
「名はまだない。いや、あるが、この世界では名乗っていない」
『では、名乗るまで、未登録の来訪者さん』
「長い」
『我慢してください』
「案内端末より強いな」
『歌姫ですから』
理由になっているのか分からない。
だが、この世界ではそういうものなのだろう。
『あなたが本当にこの世界の外から来たのなら、行く場所を間違えないでください』
「どういう意味だ」
『戦史展示は、敵を知る場所です。行政支援窓口は、あなたがこの街で消えないための場所です。中央通りは、人がまだ笑う理由を知る場所です』
歌姫は、私を見上げた。
『そして、食事をする場所は、あなたが倒れないための場所です』
「……そこに戻るのか」
『はい。あなたは空腹です』
「なぜ分かる」
『腹部音を検出しました』
私は案内端末を見た。
「お前も聞いたか」
『はい』
「忘れろ」
『記録済みです』
「消せ」
『医療・栄養支援上、削除非推奨です』
「この世界は記録しすぎだ」
歌姫が声を出して笑った。
今度の笑いは、投影全体に流れる演出ではない。小さな柱の上で、私だけに向けられた笑いだった。
私は、少しだけ肩の力を抜いた。
敵はいる。
機械生命体は、どこかにいる。
私の世界を歪めた原因も、きっとこの世界のどこかにある。
だが、今ここにあるのは、歌と、光と、空腹と、失礼な案内端末と、私を見て笑う小さな歌姫だった。
戦場ではない。
けれど、戦争の中にある街。
その街で最初に私へ話しかけたのが、剣でも命令でもなく、歌だったという事実を、私はたぶん忘れない。
『さて』
歌姫は姿勢を正した。
『未登録の来訪者さん。あなたは、どこへ行きますか』
私は答えようとして、少しだけ考えた。
敵を知るか。
身分を得るか。
腹を満たすか。
それとも、この歌姫にもう少し問い続けるか。
どれも戦いではない。
だが、どれも次の一歩だった。
この話の選択肢
- 歌姫《ルミナ》に、通信干渉の正体を尋ねる
- 案内端末に従い、行政支援窓口へ向かう
- 空腹を認めて、食事ができる場所を案内させる正史
- やはり対機械生命体戦史展示へ向かう