転生したら秋葉原だった女神は転生先を間違えたのではないか
最後の戦場は、意外なほど静かだった。
剣が折れる音も、鎧が砕ける音も、敵軍の咆哮も、最後には遠くなった。耳に残っていたのは、誰かが私を呼ぶ声だけだった。
「行け!」
私は振り返らずに叫んだ。
「門を閉じろ! 振り返るな!」
「ですが、隊長!」
「命令だ!」
部下の顔は見なかった。見てしまえば、きっと迷った。
私の前には、黒い炎をまとった魔族の将軍が立っていた。背後では転移門が軋み、味方の最後の一団が王都へ逃れようとしている。ここを抜かれれば、敵軍は王国の中心まで雪崩れ込む。
左腕はもう動かない。魔力も底をつきかけている。愛剣は半ばから欠け、刃と呼ぶにはあまりに頼りなかった。
それでも、私は笑った。
「貴様、まだ立つか」
魔族の将軍が低く言った。
「ああ」
私は残った右手で剣を構える。
「私は魔法剣士だからな。剣が折れても、魔力が尽きても、立っている間は戦場だ」
「愚かな」
「よく言われる」
次の瞬間、黒炎が視界を埋めた。
私は最後の魔力を刃に流し込んだ。火でも氷でも雷でもない。ただ、道を切り開くためだけの光。倒れ込む感覚と同時に、私の剣もまた敵の胸元へ届いていた。
「人間が……」
「人間だ」
私は答えた。
「だから、しつこい」
そこで、世界が崩れた。
要塞の天井が落ち、足元が消え、赤い空が遠ざかる。私は自分が倒れているのだと遅れて気づいた。
隊長、と誰かが叫んだ。けれど返事はできなかった。
これで少しは守れただろうか。
そう思ったところで、私の意識は途切れた。
*
「――本当に、困った人ですね」
女の声がした。
知らない声だった。だが、不思議と耳に痛くない。静かな泉に指を沈めたような声だった。
私は目を開けた。
そこには白があった。空も地面もない。壁も天井もない。ただ白い。けれど眩しくはなく、寒くも暑くもない。自分が立っているのか浮いているのかさえ、よく分からなかった。
そして、私の前に女がいた。銀色の髪。夜明けのような瞳。衣は風もないのにゆるやかに揺れている。人間ではない。そんなことは、魔力を見ずとも分かった。
私は反射的に膝をつきかけた。
「やめてください」
女は少し慌てたように手を伸ばした。
「今のあなたに礼を尽くされると、私の方がつらいのです」
「……あなたは?」
「あなたの世界で、女神と呼ばれていたものです」
私はしばらく黙った。神殿で聞いた神話。戦場で兵士が握りしめる護符。最後の瞬間に呼ぶ名。その本人が、少し困った顔で私を見ていた。
「私は、終わったのですね」
「はい」
女神は隠さなかった。
「あなたは要塞を守り、転移門を守り、百二十七名を逃がしました」
「……そうですか」
胸の奥から息が抜けた。
「なら、よかった」
「よくありません」
思ったより強い声だった。私は顔を上げる。女神は眉を寄せていた。怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
「あなたはいつもそうです。自分を差し出せば済むと思っている。誰かを逃がせば、それで終わりだと思っている」
「実際、戦場ではそうするしかない場面があります」
「ええ。だから責めてはいません」
「では、なぜ怒っているのです」
「怒っているのではありません」
女神は目を伏せた。
「悲しいのです」
神が悲しむ。その言葉は、私には少し重すぎた。
「私の魂は、裁かれるのですか」
「いいえ。本来なら、あなたには休息が与えられるはずでした。長く戦いすぎましたから」
「本来なら?」
私はその言葉を聞き逃さなかった。
「やはり、鋭いですね」
「戦場では、言葉の端が命取りになります」
「では、はっきり言います。あなたに頼みがあります」
「神が、私に?」
「はい」
女神は私の前まで歩いてきた。足音はなかった。
「あなたの戦っていた敵軍。その異常な力は、魔族だけのものではありませんでした」
「どういう意味です」
「別の世界から流れ込んだものが、彼らを変質させていたのです。魔王ですら、その力に侵されていた可能性があります」
「別の世界?」
「あなたの世界とは違う理で動く場所です。魔法はほとんどなく、人々は機械と電気と情報で文明を築いています」
「機械、とは」
「鉄でできた使い魔のようなもの、と思ってください」
「使い魔なら分かります」
「ただし、祈っても止まりません」
「厄介ですね」
「とても」
女神は少しだけ笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。
「その世界では、宇宙から現れた機械生命体が大地を奪いました」
「宇宙、とは?」
「空のさらに上。星々の海です」
「星の海から、機械の魔物が来たと?」
「その理解で構いません」
構わないと言われても、構う。星の海から機械の魔物が攻めてくるなど、酔った吟遊詩人でももう少し筋の通る話をする。
「その世界は滅びたのですか」
「完全には」
女神が指先を軽く動かすと、白い空間に光の地図のようなものが浮かんだ。見慣れない大陸。細長い島。広い海。私はそれを地図だと理解するのに少し時間がかかった。
「日本、台湾、オーストラリア。この三つは、まだ無事です」
「無事、ということは戦っているのですね」
「ええ。守られています。かろうじて、ではなく、強く」
「他は?」
「アメリカと呼ばれる国は、すでに機械生命体の支配下です。ユーラシア大陸も、ほとんどが同じ状態です」
「ほとんど?」
「韓国は……観測が安定しません。生きているとも、落ちたとも言い切れない」
「他の地域は」
「分かりません」
神が、分からないと言った。その事実が、どんな魔物よりも不気味だった。
「そこに、私を送るのですか」
「はい」
「なぜ私です」
「あなたが、魔法剣士だからです」
女神の声は静かだった。
「その世界の機械生命体は、魔法を知りません。けれど魔法の源と、彼らが使う情報の流れは、どこかで干渉します。あなたの剣は、あの世界で初めて“届かないもの”へ届く可能性があります」
「私はもう終わった身です」
「だから、転生させます」
「赤子からですか?」
「いいえ。時間がありません。あなたには、あなたのまま行ってもらいます」
「それは転生というより、戦場への再配置では?」
「否定はしません」
「女神にしては乱暴ですね」
「ええ。自覚しています」
女神はまっすぐ私を見た。
「それでも、お願いします。あなたの世界を歪めた原因は、その異世界にあります。あなたの戦いは、終わっていなかったのです」
終わっていなかった。その言葉は、胸に沈んだ。
私はようやく剣がないことに気づいた。腰に手をやっても、何もない。鎧もない。傷の痛みさえ消えている。
「断れば?」
「眠れます」
女神は即答した。
「あなたは十分に戦いました。私に、あなたを責める資格はありません」
「では、なぜそんな顔をしているのです」
「断ってほしくないからです」
その正直さに、私は少し笑ってしまった。
「神はもっと遠回しに物を言うと思っていました」
「遠回しに言って、あなたが休むと言ったら困ります」
「ひどい神だ」
「はい」
「認めるのですか」
「認めます」
白い空間は静かだった。剣戟もない。悲鳴もない。血の匂いもない。
たぶん、ここで眠るのは楽なのだろう。目を閉じれば、もう何も考えずに済む。けれど私は、最後に聞いた声を覚えていた。隊長、と叫んだ誰かの声を。
「ひとつ、聞きます」
「はい」
「私がその異世界へ行けば、私の世界は救われますか」
「必ずとは言えません」
「では、私が行けば、その日本という国は救われますか」
「それも、必ずとは」
「では、何が約束できます」
女神は少し考えてから言った。
「あなたの剣が、まだ誰かに届く場所へ送ります」
それで十分だった。
「なら、行きます」
女神の瞳が揺れた。
「本当に?」
「その顔で頼まれて断れるほど、私は器用ではありません」
「後悔しますよ」
「何度もしました」
「また倒れるかもしれません」
「一度経験しました」
「異世界ですよ」
「魔王軍より話が通じることを祈ります」
「たぶん、通じないものも多いです」
「では斬ります」
「すぐ斬らないでください」
女神は初めて、はっきり笑った。
そして、私の胸に手を当てた。
「行き先は、日本。秋葉原。西暦二三〇〇年」
「アキハバラ」
私はその響きを繰り返した。
「地名ですか?」
「はい。かつては電気と趣味の街と呼ばれていました」
「デンキとシュミ」
「説明は、現地で覚えてください」
「不安しかありません」
「私もです」
「女神」
「はい」
「あなた、本当に大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
白い世界が砕け始めた。足元から光がほどけ、女神の姿が遠ざかる。私は思わず手を伸ばした。
「待ってください。剣は?」
「ありません」
「鎧は?」
「ありません」
「金は?」
「ありません」
「言葉は?」
「そこは祝福しました」
「他には?」
「幸運を少し」
「少し?」
「すみません。今の私にできる限界です」
視界が光に飲まれる。
最後に女神の声が聞こえた。
「どうか、生きてください。今度は、守るだけではなく」
「無茶を言う」
私は答えたつもりだった。だが、声になったかどうかは分からない。
*
目を開けた瞬間、私は剣を探した。
ない。
次に敵を探した。
多すぎた。いや、敵なのかどうかも分からない。
夜だった。たぶん夜だ。だが空は暗くない。巨大な塔がいくつも天を貫き、その壁一面に光る文字と女の絵が浮かんでいる。空中を箱のような乗り物が音もなく滑り、頭上では透明な道を人々が歩いていた。
地面は石ではなく、黒く硬い何かで覆われている。馬はいない。だが鉄の獣のようなものが列を作って走っている。人々は誰も鎧を着ていないのに、耳や目に小さな機械をつけ、空中に指を滑らせながら歩いている。
剣を持つ者はいない。それなのに、ここは戦場よりも騒がしかった。
頭上で、巨大な光の看板が音もなく切り替わる。
『ようこそ、秋葉原第七層へ』
文字は読めた。女神の祝福だろう。
だが、意味は分からなかった。
私は黒い道の端に立ち尽くし、周囲の光と音と人の波に呑まれながら、ようやく一言だけ絞り出した。
「……なんだこれは」
この話の選択肢
- 近くの人間に声をかける
- まずは武器になりそうな物を探す
- 光る看板の「秋葉原第七層」へ向かう正史