転生したら秋葉原だった糸を振るう手
前の話で選んだ選択肢隔離訓練模型への片方向接続を正式申請し、返響視で得た理解を返響操糸による操作へ移す。
翌朝、再整備倉庫へ戻る前に、私は自分の身体を一通り動かした。
指を握る。開く。
肩を回す。腰を落とす。片足ずつ体重を預ける。
昨日、返響視を長く使ったせいか、目の奥には薄い重さが残っていた。だが、剣を持てないほどではない。
もっとも、今の私には剣がない。
「問題ない」
ルミナ『誰に報告したのですか』
「自分にだ」
ルミナ『自分で自分を診察できるのですね』
「動けるかどうかくらいは分かる」
ルミナ『昨日も、動ける状態で止まりました』
私は歩き出した。
「今日は動かす」
ルミナ『よく眠れましたか』
「横にはなった」
ルミナ『眠ったかを聞いています』
「目は閉じた」
ルミナ『では、考え事をしていたのですね』
「よくしゃべる歌姫だ」
ルミナ『昨日より元気そうで安心しました』
再整備倉庫の扉が開いた。
昨日と同じ冷たい空気が流れてくる。
だが、訓練区画は同じではなかった。
赤い四本の柱。その内側に置かれた隔離訓練模型。一本の腕と二つの関節、腰に似た回転部。
模型を囲む床には、昨日までなかった細い銀色の溝が刻まれていた。途中で何度も枝分かれし、赤い柱の根元へつながっている。
「増えたな」
案内端末『夜間に遮断経路を再点検しました』
「眠らないのか」
案内端末『睡眠を必要としません』
「便利だな」
案内端末『クオに同じ運用を推奨するものではありません』
ルミナ『心配されていますね』
「今のどこに心配があった」
案内端末『ありません』
「ないらしい」
ナギサの投影が、赤い境界の反対側に現れた。
ナギサ『昨日の申請に基づき、返響操糸の隔離模型接続試験を開始します』
「待たせたな」
ナギサ『申請から十一時間二十七分です』
「長い」
ナギサ『模型の分解確認、駆動上限の固定、遮断試験を行いました』
「なら、必要な時間だ」
案内端末『条件を表示します』
白い文字が模型の上へ並んだ。
片方向。
低出力。
短時間。
即時物理遮断可能。
昨日と同じ四つだ。
案内端末『接続はクオから隔離訓練模型への一方向に限定されます』
案内端末『都市網および外部機器への接続経路は存在しません』
案内端末『出力上限を超えた場合、模型側の駆動部を物理的に分離します』
案内端末『規定時間は十二秒です』
「短いな」
ナギサ『最初の課題には十分です』
模型の肘に相当する関節。その横へ、白い線が一本引かれた。
ナギサ『指定された関節のみを白線まで曲げてください。その後、同じ経路で初期位置へ戻し、接続を終了してください』
「それだけか」
ナギサ『それだけです』
「昨日は随分と面倒な問題を出した」
ナギサ『今日は最初の接続です』
私は赤い境界の前に立った。
右手を上げる。
返響視を開くと、模型の内側に白い流れが浮かんだ。
昨日も見た道だ。
肘へ力を送る道。曲がるための道。止まるための道。元へ戻る道。
だが、見るだけだった昨日とは違う。
今日は、その道へ手を伸ばす。
「始める」
案内端末『計時開始』
指先から何かが伸びた。
光ではない。
物でもない。
模型から何かが返ってきたわけでもない。
私が見つけた道へ、私の意思だけが細く続いていく。
剣を振る直前、刃の行く先を決める感覚に似ていた。
ただし、手の中に重さがない。
柄もない。
刃もない。
それなのに、届く。
「曲がれ」
糸を、肘の道へ結んだ。
隔離訓練模型の腕が動いた。
低い駆動音。
関節がゆっくり曲がり、先端が白線へ近づく。
力を入れすぎる必要はなかった。
糸を引くのではない。
曲がるべき道を示す。
模型はその道を選び、自分の力で動いた。
「そこで止まれ」
腕が白線の上で止まる。
案内端末『指定位置到達』
「戻れ」
糸の向きを反す。
模型の腕が、来た時と同じ道をたどる。
肘が伸びる。
初期位置。
私は指を閉じた。
糸が切れた。
模型は動かない。
案内端末『接続終了』
案内端末『経過時間、八・二秒』
案内端末『出力上限内』
案内端末『非指定関節の作動なし』
案内端末『逆方向伝達なし』
案内端末『外部接続なし』
案内端末『物理遮断、未作動。待機状態正常』
赤い柱の光が青へ変わった。
ナギサ『初期試験は合格です』
ルミナ『おめでとうございます』
「これで何が守れる」
青い光の中で、誰もすぐには答えなかった。
ルミナ『クオ?』
「腕を一度曲げて、戻した」
案内端末『要求動作を正しく完了しました』
「だから、これで何が守れる」
案内端末『将来の実機接続に必要な基礎条件を確認しました』
「基礎を確かめるなとは言っていない」
私は隔離訓練模型を指した。
「だが、動かせると分かっただけで終わるなら、昨日と同じだ」
ナギサ『昨日は観察段階です。今日は操作段階へ進んでいます』
「一歩進んで、そこで座るのか」
ルミナ『座る場所はありませんね』
「そういう話ではない」
案内端末『追加試験は予定されていません』
「なら、今決めろ」
案内端末『クオに試験計画の変更権限はありません』
「ナギサにはあるか」
ナギサ『範囲によります』
「隔離は維持する。出力も上げない。時間も残っている」
ナギサ『残りの割当時間は二十一分です』
「十分だ」
案内端末『何を行うつもりですか』
私は倉庫の奥を見た。
昨日、隔離訓練模型が運ばれてきた搬入口。
古い部品店の荷物を運び入れていた場所だという。
扉の脇には、透明な保護層の下に古い板が残されていた。表面のほとんどは削れ、読める文字はわずかだった。
部品。
取扱。
その間に、消えてしまった文字がある。
三百年近く前、誰かがそこを通って、小さな機械の中身を運んだ。
今はその搬入口が、訓練用の荷物を滑らせる設備として使われている。
「荷物を落とせ」
ルミナ『落とすのですか』
「模型に受けさせる」
案内端末『初期接続直後の複数関節操作は推奨されません』
「禁止か」
案内端末『禁止ではありません』
「なら、できる」
案内端末『可能と安全は同義ではありません』
「同義にするために試す」
ナギサの投影が搬入口へ向いた。
ナギサ『条件を指定してください』
「箱を一つ。中身は動く物にしろ」
ナギサ『重量は』
「模型の低出力上限で受けられる範囲」
ナギサ『速度は』
「実際に落ちれば困る速さだ」
案内端末『定義が不明確です』
「お前たちが、止めなければ赤い境界を越える速さを決めろ」
ナギサ『受け方は』
「私が決める」
ナギサ『成功条件は』
「箱と模型を壊さず、境界の内側に収める」
案内端末『標準制御のみでは成功しない条件を含めますか』
「含めろ」
ルミナ『最初から難しくしすぎではありませんか』
「簡単な動きは、もうできた」
ルミナ『八秒ほど前にです』
「十分だ」
ルミナは心配そうに模型を見た。
ルミナ『糸は切れるのですよね』
「切れる」
ルミナ『それでも、切らずに進むのですか』
「必要なら切る」
私は右手を開いた。
「だが、切ることだけを覚えに来たわけじゃない」
搬入口の床が低く震えた。
透明な保護層の下で、古い金属の溝が鈍く光る。
その上に新しい搬送板が重なり、灰色の箱が現れた。
腰ほどの大きさ。
表面には何も書かれていない。
返響視を開く。
箱の中に、小さな白い塊がいくつも見えた。
固定されていない。
傾けば動く。
「始めろ」
ナギサ『追加隔離試験を開始します』
案内端末『片方向接続、維持』
案内端末『低出力上限、維持』
案内端末『物理遮断、待機』
灰色の箱が滑り出した。
速い。
「昨日より素直だな」
ナギサ『速度条件はクオの要求に基づいています』
「私のせいか」
ナギサ『はい』
「なら仕方ない」
私は模型へ糸を伸ばした。
まず肘。
次に肩に相当する上の回転部。
最後に腰。
三つの道が白く浮かぶ。
箱は模型の腕へ近づいてくる。
「腕を下げろ」
返響操糸が肘へ通る。
模型の腕が、箱の下へ差し込まれる。
「肩を開け」
上の回転部が外へ向く。
受け止める形ではない。
受け止めれば、箱の勢いがそのまま関節へぶつかる。
重い剣を正面から受けた時と同じだ。
力で止めれば、刃か腕が負ける。
触れる。
添える。
そして流す。
箱が模型の腕へ当たった。
金属の衝突音。
腕が沈む。
案内端末『成功余裕、低下』
「まだ範囲内か」
案内端末『規定範囲内です』
「なら続ける」
箱を止めない。
肘を曲げながら、肩を回す。
模型の腕が箱の下を滑り、落ちる向きを横へ変えていく。
腰の回転部へ糸を通す。
「回れ」
模型全体が半歩分だけ向きを変えた。
箱の正面にあった赤い境界が、横へずれる。
受け台が見える。
ルミナ『届きそうです』
「まだだ」
箱の中で、白い塊が動いた。
左へ集まっていた部品が、一斉に右へ滑る。
箱の傾きが変わった。
肩へ通していた糸が引かれる。
別の道が開く。
模型の腕を上へ跳ねさせる道。
速い。
だが、その道を選べば箱が浮き、赤い境界を越える。
案内端末『動作経路、分岐』
ルミナ『糸を切りますか』
「切らない」
私は糸を握るように指を曲げた。
伸びようとする道を止める。
力そのものを消すのではない。
肩へ向かっていた意思を細くする。
代わりに肘の道を太くする。
「上げるな」
模型の腕がわずかに震えた。
「押し返すな。受け流せ」
案内端末『指示対象を特定できません』
「お前に言っていない」
案内端末『了解しました』
箱はさらに傾く。
内部の重さが右へ寄る。
昨日なら、ここで止めていただろう。
次にどこへ重さが動くのか。
それを読むことができず、右膝を壊す前に止めた。
今日は違う。
動く先が見える。
重さが箱の右下へ集まり、その角を軸に回ろうとしている。
なら、その回転を殺す必要はない。
利用する。
「腰を戻せ」
模型の腰を反対へ回す。
「肘は遅らせろ」
箱の右角が腕の上を滑った。
模型の腕が、その動きに合わせて沈む。
肩へ広がりかけた糸を閉じる。
腰へ集める。
肘へ返す。
三本だった糸が、一本の動きへまとまった。
剣なら、相手の刃をこちらの刃に沿わせ、そのまま地面へ落とす。
今、私の手に剣はない。
代わりに、一本の機械の腕がある。
「振り抜け」
模型の腰が回った。
腕が円を描く。
箱は腕から離れない。
落下の勢いが横向きへ変わり、受け台へ流れていく。
案内端末『赤色境界まで、〇・四』
「見えている」
ルミナ『クオ』
「間に合う」
箱の端が赤い光へ近づく。
模型の肘を伸ばす。
押すのではない。
最後の勢いだけを受け台へ渡す。
灰色の箱が腕を離れた。
一度、受け台の表面で跳ねる。
内部の部品が鳴る。
箱は赤い境界の手前で回り、止まった。
模型の腕も止まる。
私は糸を切った。
白い道が消えた。
倉庫に、箱の中身が落ち着く音だけが残った。
案内端末『接続終了』
案内端末『境界接触なし』
案内端末『模型損傷なし』
案内端末『荷箱損傷なし』
案内端末『物理遮断、未作動』
赤い柱が青へ変わる。
私は息を吐いた。
目の奥が熱い。
右手には、まだ糸を握っているような感覚が残っていた。
ルミナ『今度は、止まりませんでしたね』
「止める必要がなかった」
ルミナ『危なくはありませんでしたか』
「危なかった」
ルミナ『では、なぜ』
「間に合う道が残っていた」
ナギサの前に、試験記録が広がる。
ナギサ『設定された標準手順では、箱は境界へ到達していました』
「だろうな」
ナギサ『初期の操作計画にも、途中の荷重移動への対応は含まれていません』
「途中で変えた」
ナギサ『はい』
案内端末『返響操糸による入力は、固定された関節命令ではありませんでした』
「どういう意味だ」
案内端末『クオが返響視で理解した構造へ、継続的に判断を反映しています』
「最初に命令を決めて終わりではない」
ナギサ『状況が変わるたびに、クオが道を選び直しています』
私は隔離訓練模型を見た。
昨日まで、白い流れを見るだけだった。
今日、初めてそこへ触れた。
最初の八秒では、決められた道を正しく通した。
二度目は、道そのものを戦いながら変えた。
「剣と同じだ」
ルミナ『機械の腕が、ですか』
「振り始める前に、すべては決まらない」
敵は動く。
足場は崩れる。
味方が割り込むこともある。
最初に決めた一撃へ固執すれば、斬るべきでないものを斬る。
だから、振りながら選ぶ。
進むか。
逸らすか。
止めるか。
そして、届かせるか。
「糸も、結んだ後に選び続ける」
ナギサ『返響操糸を未完成能力として記録します』
「未完成か」
ナギサ『一度の成功だけでは、完成とは呼べません』
「そこは慎重だな」
ナギサ『はい』
「だが、使えないとは書くな」
ナギサ『限定条件下で実用可能、と記録します』
「それでいい」
案内端末『追加試験は成功です』
「今度は余計な言葉が少ないな」
案内端末『結果に必要な情報を提示しました』
「少し仲が良くなったか」
案内端末『該当する関係変化は記録されていません』
「そうか」
ルミナ『残念そうです』
「違う」
ルミナは隔離訓練模型ではなく、私を見ていた。
ルミナ『でも、ようやくクオらしい顔になりました』
「昨日も同じ顔だ」
ルミナ『昨日は、止まる理由を探していました』
「必要だった」
ルミナ『今日は、進む道を探していました』
私は搬入口へ目を向けた。
透明な保護層の下に残された、古い部品店の床。
その奥には、倉庫の外へ続く扉がある。
さらに先には、崩れた高架と、重ね直された街と、まだ私の知らない秋葉原がある。
隔離された模型を動かせた。
次に必要なのは、動かすこと自体を確かめる試験ではない。
間に合わなければ壊れる場所。
届かなければ失われる場所。
そこで、この糸が何をできるかだ。
「止まるために来たんじゃない」
ルミナ『はい』
「間に合わせるために来た」
ナギサ『次段階の申請として記録しますか』
「申請では遅い」
案内端末『手続きは必要です』
「なら、今始めろ」
案内端末『試験直後の追加申請は推奨されません』
「今日はもう休めと言うのか」
案内端末『はい』
私は黙った。
ルミナ『昨日より仲が良くなりましたね』
「どこがだ」
ルミナ『止められる前に、休むよう言われました』
「同じだ」
青くなった境界の向こうで、隔離訓練模型の腕が静かに下がっている。
もう、ただの模型には見えなかった。
私の意思が届いた最初の身体だ。
だが、ここはまだ守られた檻の中だ。
私は搬入口の先を見た。
「試験は終わった」
荒廃した街の朝が、扉の隙間から差し込んでいた。
「次は、間に合わせる」
この話の選択肢
- いつもの炊事場で腹を満たしてから、先日訪れたメイド喫茶へもう一度行く。今度は試験も仕事も忘れ、店で働く者たちやルミナと穏やかな時間を過ごす。正史
- いつもの炊事場に残り、食事の支度や片づけを手伝う。住民たちとの会話を通して、二三〇〇年の秋葉原で営まれている普通の暮らしを知る。
- 訓練を休みにして、ルミナと生活区を気ままに歩く。食べ物や日用品を眺めながら、戦いや任務とは関係のない一日を過ごす。