転生したら秋葉原だった休戦の席
前の話で選んだ選択肢いつもの炊事場で腹を満たしてから、先日訪れたメイド喫茶へもう一度行く。今度は試験も仕事も忘れ、店で働く者たちやルミナと穏やかな時間を過ごす。
再整備倉庫の扉が閉じると、金属の冷たい音が背中で響いた。
隔離訓練模型は、もう見えない。
それでも右手には、まだ糸を握っているような感覚が残っていた。
「次の申請を出す」
ルミナ『出しません』
「なぜだ」
案内端末『返響操糸の試験終了から十一分しか経過していません』
「十一分あれば、申請書の一枚くらい読める」
ルミナ『読むだけでは終わりませんよね』
「必要な条件を確認するだけだ」
案内端末『クオが「確認するだけ」と発言した後、追加行動へ移った割合は高水準です』
「余計な記録を取るな」
ルミナ『役に立っています』
朝の光が、旧搬入口の細い隙間から床へ伸びていた。
試験中は気にならなかった空腹が、急に腹の底から押し寄せてくる。
私は何も言わなかった。
案内端末『空腹反応を検出しました』
「言うな」
ルミナ『アキバ炊事場へ行きましょう』
「食べたら申請する」
ルミナ『食べてから考えましょう』
「同じだ」
ルミナ『だいぶ違います』
アキバ炊事場には、朝の片づけが始まる前の湯気が残っていた。
大鍋の蓋が細く揺れ、食器を運ぶ台車が床の線に沿って静かに進んでいる。壁の古い金属板には、消えかけた店名の上から新しい案内光が重ねられていた。
ミトラは私の顔を見るなり、何も聞かずに器を一つ置いた。
ミトラ「座って」
「先に空いた器を運ぶ」
ミトラ「座って」
「食べてから運ぶ」
ミトラ「今日は食べたら、そのまま出ていいよ」
私は器とミトラを見比べた。
「何か失敗したか」
ミトラ「してない」
「なら、なぜ仕事を外す」
ミトラ「隊長さん、目の奥が赤いから」
「返響視を使った後は、いつも多少は残る」
ミトラ「だから食べる。で、休む」
「休むほどではない」
案内端末『休息推奨です』
「お前は黙っていろ」
ルミナ『私も休息を勧めます』
「二対一か」
ミトラ「三対一」
「店の者が裁定に入るのか」
ミトラ「ここでは入るよ」
器の中には、柔らかく煮た穀物と細かく刻まれた肉が入っていた。香草の匂いは弱く、試験の後でも食べやすいように調整されている。
私は腰を下ろした。
「借りが増える」
ミトラ「増えないよ」
「食事を受け取っている」
ミトラ「炊事場で七日働いたでしょ」
「あれは生活実績だ。食事代の支払いとは別だ」
ミトラ「じゃあ、今日の分は昨日までの隊長さんから」
「昨日の私が払うのか」
ミトラ「昨日まで頑張った人に、今日のご飯くらい出しても罰は当たらない」
「曖昧だな」
ミトラ「そういう日もある」
私は匙を取った。
温かい。
口に入れると、身体に残っていた硬さが、少しずつほどけた。
試験では、動く荷重を読み、関節の道を選び直した。
今は、何も選ばなくていい。
それが妙に落ち着かなかった。
「何もしない時間には、成功条件がない」
ミトラ「また難しいこと言い始めた」
「どこまで休めば完了だ」
ルミナ『完了させなくてもいいのではありませんか』
「終わらない任務は困る」
ルミナ『休息を任務にしないでください』
私は匙を止めた。
ルミナは、湯気の向こうで穏やかに笑っていた。
ルミナ『今日は、ただ一緒に過ごしたいです』
返す言葉がすぐには見つからなかった。
「……分かった」
ミトラ「今のは記録しておいた方がいいね」
案内端末『記録しました』
「消せ」
案内端末『必要性を認めません』
食事を終えると、私は器を返却口へ運んだ。
それだけは許された。
床を拭こうとした布は、ミトラに取り上げられた。
ミトラ「行ってらっしゃい」
「追い出された気がする」
ミトラ「休ませたの」
炊事場を出て、中央通りへ向かった。
旧高架の鉄骨は、未来の外壁に半分飲み込まれながら残っていた。支柱の根元には保存看板が並び、古い矢印と現行の避難表示が同じ方向を指している。
部品店の小さな窓には、手のひらほどの歯車や配線が並んでいた。その上を、空中投影の価格表示が淡く流れている。
新しい街は、古い街を壊し切らずに使っていた。
古い街もまた、役目を失ったふりをしながら、新しい街を支えている。
ルミナ『今日は、返響視を使わないのですね』
「使う理由がない」
ルミナ『理由がなくても、何かを探してしまうかと思いました』
「私を何だと思っている」
案内端末『異常または任務を発見すると接近する傾向があります』
「発見しなければ接近しない」
ルミナ『では、今日は見つけないでください』
「難しい注文だ」
中央通りの人波は穏やかだった。
工具箱を抱えた作業員。小さな投影玩具を追いかける子ども。古い基板を透明な袋に入れて運ぶ老人。
誰も走っていない。
警報もない。
何かが壊れる音もしない。
私は歩調を少し落とした。
ふわふわの砦の丸い看板が見えた。
入口に立っていたコハルが、こちらへ気づく。
コハル「クオさん!」
大きく振られた手より先に、今日の服が目に入った。
前に見た白と黒の軽やかな服とは違う。
黒い布は身体に沿うよう仕立てられ、胸元はいつもより深く開いていた。白いレースが縁を飾り、その下で細い赤のリボンが結ばれている。肩から腕へ落ちる布は薄く、華やかだが、防具として見ればあまりに頼りない。
私は足を止めた。
コハル「あの、どうですか?」
「胸部の防護が足りない」
コハル「そこじゃないです」
案内端末『衣装を防護装備として評価しないでください』
「急所が露出している」
コハル「急所って言わないでください!」
ルミナ『クオ、もう少し別の見方があると思います』
「動きやすさか。腕は上げやすそうだ」
コハル「近づいてません!」
店の奥から、マユリが顔を出した。
マユリ「コハルちゃん、だからクオ様には説明しないと伝わらないって」
コハル「分かってましたけど、少しくらいは気づいてほしかったんです」
「何にだ」
コハルは胸元のリボンへ指を添えた。
先ほどまでの勢いが消え、目がわずかに泳いだ。
コハル「今日、クオさんが来るかもしれないと思って……これを着て待ってたんです」
その声は、中央通りのざわめきに紛れそうなほど小さかった。
私は改めて衣装を見た。
防護ではない。
仕事の効率でもない。
私が来るかもしれないという理由で、朝から選ばれた服。
「待たせたな」
コハル「……はい。少しだけ」
コハルは照れたまま笑った。
マユリ「そこで格好いい返事が出るの、ずるくないですか?」
ルミナ『クオですから』
「何の話だ」
コハル「いいんです。今ので十分です」
コハルは胸の前で手をそろえた。衣装のせいか、前より少し大人びて見える。それでも、頭を下げる仕草は変わらなかった。
コハル「お帰りなさいませ、クオ様」
私は反射的に帰還報告を考えた。
返響操糸の初接続。追加試験。損傷なし。次段階の申請。
だが、今日は報告を求められていない。
私は息を一つ吐いた。
「ただいま」
コハルが顔を上げた。
ほんの一瞬、驚いたように目を見開く。
それから、朝の光より明るく笑った。
コハル「はい。お帰りなさいませ」
店へ入ると、セリカが窓際の席を整えていた。
セリカ「本日は文化説明も実地訓練もありません。どうぞ、お掛けください」
「何もしなくていいのか」
セリカ「お客様ですので」
「水を運ぶくらいはできる」
レイ「すでに用意しております」
レイが盆を置いた。
茶の器が二つ。小さな焼き菓子が一皿。
菓子は歯車の形をしていたが、黒くはない。淡い焼き色で、中央には赤い果実の蜜が落としてある。
「注文していない」
コハル「前回、体験に協力してくれたお礼です」
「前回は見学料と相殺した」
セリカ「これは精算ではありません」
レイ「記録にも債務にも残りません」
「対価なしで受け取れというのか」
マユリ「贈り物です」
私は皿を見た。
返すべき量が分からない物は、受け取りにくい。
借りなら返せる。
任務なら果たせる。
だが、贈り物には完了条件がない。
コハル「嫌なら、断っても大丈夫です」
「断っても記録上の不利益はないか」
案内端末『ありません』
「受け取っても、後日の労務義務は発生しないか」
案内端末『発生しません』
マユリ「端末さんに契約確認しないとお菓子も食べられないんですね」
「重要だ」
コハル「じゃあ、これは私がクオさんに食べてほしくて置きました。それだけです」
コハルはまっすぐ私を見ていた。
胸元の赤いリボンが、呼吸に合わせてわずかに揺れる。
「……受け取る」
コハル「はい」
短い返事だった。
それなのに、ひどく嬉しそうだった。
ルミナは窓際へ移動し、中央通りがよく見える位置に小さく投影された。
コハル「いつものように、店内全体が見える場所にしますか?」
ルミナ『いいえ。今日は窓を見たいです』
コハル「中央通りを?」
ルミナ『はい。今日は私が街を見ていたいです』
通りでは、人々がルミナの大きな投影を見ることがある。
歌を待ち、案内を聞き、安心を受け取る。
今のルミナは、小さな席から、その人々を眺めていた。
ルミナ『ここから見ると、みなさんの顔がよく見えますね』
「普段は見えないのか」
ルミナ『見えます。でも、見守るために見るのと、何となく眺めるのは違います』
「違いが分からない」
ルミナ『今日は分からなくていいです』
私は茶を飲んだ。
少し甘い香りがする。
焼き菓子を割ると、表面は硬いが、中は柔らかかった。
マユリ「どうですか?」
「うまい」
マユリ「それだけ?」
「甘い。歯車の形にする必要は分からないが、持ちやすい」
マユリ「感想が実用品なんですよね」
セリカ「クオ様らしくてよいのでは」
コハルは私の向かいへ立ち、何か言いたそうにしていた。
「座らないのか」
コハル「勤務中です」
「では、話すのも仕事か」
コハル「今日は少しだけ、休憩を前倒ししてもらいました」
マユリ「服まで選んで待ってたので」
コハル「マユリ先輩!」
コハルの頬が赤くなる。
私は衣装をもう一度見た。
「その服は、勤務に支障がないのか」
コハル「あります?」
「前屈すると胸元が気になる」
店内が一瞬、静かになった。
コハル「クオさん、見てたんですか?」
「構造を確認した」
マユリ「確認したんだ」
ルミナ『クオ』
「何だ」
ルミナ『今の説明は、たぶん逆効果です』
「なぜだ」
コハル「もういいです。見てくれたなら、それでいいです」
コハルは両手で頬を隠した。
耳まで赤い。
私は何を間違えたのか考えたが、案内端末は珍しく説明しなかった。
代わりにレイが空いた茶器へ手を伸ばした。
「私が運ぶ」
レイ「休んでください」
「一つくらいなら」
レイ「休んでください」
セリカが焼き菓子の皿を補充する。
「それは私が」
セリカ「休んでください」
床へ小さな紙片が落ちた。
拾おうとすると、マユリが足先で素早く押さえた。
マユリ「休むことまで訓練にしないでください」
「全員、同じ命令を出すな」
コハル「命令じゃありません」
ルミナ『お願いです』
「お願いの方が断りにくい」
ルミナ『知っています』
私は椅子へ座り直した。
何もしない。
茶を飲む。
窓の外を見る。
中央通りの光が、古い高架の影をゆっくり動かしている。
店内では、セリカが静かに器を置き、マユリが子どもへ花の投影を見せ、レイが荷物の多い老人に広い席を勧めていた。
コハルは入口へ戻る前に、私のそばで少しだけ足を止めた。
コハル「来てくれて、嬉しかったです」
「待っていたからか」
コハル「それもあります」
「他にもあるのか」
コハル「ちゃんと帰ってきてくれたからです」
私は窓の外を見た。
間に合わなければ壊れる場所へ行く。
届かなければ失われる物を守る。
そのために糸を鍛える。
だが、守った後に座る席がなければ、帰還は報告だけで終わる。
温かい茶があり、甘い菓子があり、少し派手な服を選んで待つ者がいる。
それを残すために戦うのなら、剣を振る理由として十分だった。
私は最後の一口を飲んだ。
「休息は終わりか」
ルミナ『終わらせたいのですか』
「いや」
自分で答えてから、少し驚いた。
「もう少しいてもいい」
コハル「もちろんです」
それからしばらく、何の役にも立たない話をした。
マユリは、前世に本物の竜がいたのかと聞いた。
私はいたと答え、火を吐く個体より、沼に潜む小型種の方が厄介だったと説明した。
セリカは、貴族の屋敷に本当に隠し通路があるのかと尋ねた。
私は重要な屋敷にはあるが、だいたい使用人に知られていると答えた。
レイは、執事が兵站を管理するという理解について詳しく聞きたがった。
コハルは、今日の服をどう思うか、もう一度だけ尋ねた。
「目立つ」
コハル「はい」
「動きやすそうだ」
コハル「はい」
「それに……似合っている」
コハルは固まった。
マユリが口元を押さえ、ルミナが小さく笑う。
コハル「最初から、それを言ってください」
「順序が必要だった」
コハル「必要ありません」
店を出る頃には、朝と昼の境目が近づいていた。
コハルは入口まで見送りに来た。
胸元の赤いリボンは、まだきれいに結ばれている。
コハル「行ってらっしゃいませ、クオ様」
前なら、出撃命令かと聞いただろう。
今は少し分かる。
外へ出ても、戻ってきていい。
その約束を、短い言葉にして渡している。
「ああ。また帰る」
コハルの笑顔を背に、私はルミナと中央通りへ出た。
返響操糸の申請は、まだ出していない。
それでも、何かを失った気はしなかった。
握っていない糸も、確かに私をこの街へ結んでいた。
この話の選択肢
- ナギサに返響操糸の実地運用条件を確認し、最初の低危険現場へ備える。
- ルミナに、歌糸を結べるようになったら最初にどこへ歌を届けたいか尋ねる。
- コハルたちに、ふわふわの砦が避難時に人を受け入れた古い記録を見せてもらう。